2012年7月16日月曜日

週末散財記

この週末は楽しかった。

土曜の夜、みなみ会館でオールナイト映画!富田克也という監督の映画4本立!
前からずっと気になってた「国道20号線」がついに観られるってことで意気込んで行った。富田克也という監督のことも、空族のことも知らないし、おまけに20号線は一番最後、3時40分からの上映だったから、しんどくなったりせんか心配してたけど、どっこい一本目から面白くて眠たいどころじゃなくなった。ひとりで行ったけど、終わってから誰かと喋っておきたかった。

一本目冒頭、現場仕事の昼休みの中華屋で互いに自己紹介し合う場面での役者さんの面構えがかっこよくって、そのすぐ後の「サウダーヂ」ってタイトルの出し方もよくて、すぐに映画の中に飛ばされた。
2010年くらい?の甲府を舞台に三時間の間、不景気、派遣労働、移民労働者とその二世、郊外化、大麻、マルチ商売とか、あれやこれやのエピソードが微妙にかぶさって混ざりながら映画は進む。 「終わってるわ~↓でも希望は捨てないわ~↑」みたいな話じゃないのがなんだか気持ち良かった。確実にやばいものが映っていたなぁと思う。たぶん劇中の人たちには、映画として外側から観た自分が受けたような、衝撃的なまでの「終わってる」実感はなく、上に書いたようなあれこれが少しずつ確実に自分のまわりを蝕んでるかもしれないことにうっすら気付きながらも、その場しのぎのしょっぱい娯楽快楽で窮屈な欲望を満たして暮らしている。普段実感されない「終わってる」感は、ある日、誰かの勤め先の建設会社が潰れてしまったり、誰かが生まれた国へ帰ることになったり、誰かが傷害事件を起こしたり、結局は個人の出来事に還元されてしまうような、新聞の隅っこにも載らんくらいの、小さな事件としてちょろっと顔を出すだけ。観客視点ではこの町でそれらが全部繋がってるのが目に見えるけど、劇中でひとつの構造の内側に取り込まれてしまった登場人物たちにとって、自分以外の誰かに起こる出来事は無関係な他人事。むしろ映画だったからこそ、主要な登場人物を介してそれぞれの連なりが目に見えたのかもと思う。いま自分は何の内側に居て、どんな感じに終わっていってるんやろ。

残りの3本を観て分かったけど、役者さんたちの多くは他の空族の映画にも出演している。普段あまり映画観んけど、例えば「愛しのタチアナ」のヒゲのおじさんを別のカウリスマキ映画で再び見かけるような楽しさがあった。「雲の上」でのシラス君のちょっと足りないチンピラの感じとか、めちゃくちゃ良かった。おまけに20号線のエンディングのすんごい曲、LFBというグループでギターを弾いてるのもシラス君に同じく鷹野毅という人だった。何の事前情報も得ずに映画館に行ったけど、空族周辺の人たちすげぇ。全部山梨。
そういえばサウダーヂでラッパー役だった田我流もめちゃかっこよかった。いい顔。墓場のDiggerが流れるシーンでちょっとニヤっとした。こういう細かいところ、たまたま自分が気付いた些細な演出によって、この映画絶対イケてるわ、ってなったりする。今思うとサウダーヂも20号線も雲の上も、そういうのが沢山散りばめられてた。サウダーヂ、建設会社が潰れると聞いた後にセイジがロープを片付ける(シュルルっと腕に巻きつけて輪を作る)動作とか、水パイプ吸ってる時の会話とか。20号線だと、主人公の同棲相手がカラオケでアムロの曲を歌う(2007年にキャンユーセレブレイトを本気で歌うやるせなさ)時のマイクの上げ下げの動作(めっちゃおもろい、そしてそれを曲終りまでガッツリ見せられる)とか。思い出せないだけでこういう現実感があっちこっちに埋め込まれてた。

20号線はサウダージよりももっとクサクサした感じだった。こちらも地方都市を舞台にしてるけど、主人公はシンナー中毒やったり、金借りまくってたり、あらかじめ結構ギリギリな感じで、Vシネマを見るような、ちょっと別の世界の絵空事みたいな感じがあった。サウダーヂの開けた感じ(登場人物のあり方の多様さ)を観た後だったからかもしれんけど、ロードサイドの均質性とか、そこですべて完結出来てしまう人生の空しさとか、痛々しい部分がより強調されているような気がした。国道沿いに見慣れたドンキとパチンコ屋と消費者金融を結んだ内側にあんな人生があったりもする、っていう薄ら寒さが確かにあった。

あまり映画館に足を運ばない自分がバイト終わりに徹夜で4本の映画を観る、という奇妙な体験の所為もあって感想もままならないけど、すごい夜だった。 サウダーヂは何回も観たい。

日曜、豪雨の去った明け方の町をチャリで走って帰って昼まで寝て、夕方からは知人のバンドの結成1周年イベント。4組の出演者全て観たことがあって、どれも見応えのある人たちだから、私のフジロック、くらいの気持ちで観に行った。 お客さんも沢山入って、祝!ってムードあふれる良いライブだった。やはり何かを観に行く、誰かと言葉を交わすっていうのは頭の中を掻き混ぜてくれるから本当に良いなと思う。


2012年7月8日日曜日

七夕まつり

ゆうべは三条会商店街の七夕まつりだった。
バイト先の自転車屋でも本職のカレー屋さんを呼んで出店してもらったり、軒先でティーシャツとか小物売ったりビール売ったり店内でライブやったり、にぎやかだった。ビール売りの手伝いが出来なかったのが申し訳ない&残念。露店から通りすがりの人たちを眺めてみたかった。1kmくらいあるアーケードが人でギッシリ。

で、いまバンドがない自分は弾き語りで歌をうたった。そういえばギター持って初めて人前で歌ったのもココやった。去年の5月25日に、三条会で三周年記念と銘打って定休日にライブをやったのだ。その時はまだドラムのイナさんが居なくて、ベースの松ちゃん鍵盤の小森ちゃんの3人でやった。それから4人組になってひとりになって、昨日。

エレキバンドにしびれてギター始めて今日まで過ごしてきたから、弾き語りというものが掴めていない。観たことはあります、くらいの意識の低さ。音楽を鳴らせる一番ちっちゃい単位っていう面しか見えてない。でもこれだけ音楽のやり方、選択肢が増えてなお、アコギと歌っていう方法が支持され続けてるのには、もっと積極的な理由もあるような気がする。周波数特性的に歌声との棲み分けが容易、とか?ハードを一本のアコースティック楽器に限定することで生じる不自由から如何に飛んでみせるか、とか?しかし結局エレキギターが好きやから、ゆうべもエレキギターで弾き語りをした。やっぱ単純にクリーントーンでジャーンて鳴らしてもエレキの音は切ない。エレキ音楽ばかり聴いてアホになったのかも。

バンドじゃない初めての演奏、七夕まつりということで商店街を歌った曲を作った。バスドラと10穴ハープと歌を一人で。ちょっと前にシバという人のレコード「青い空の日」を聴いていてアイデアが浮かんだから。一週間前のちょっとした閃きをそのまま実行に移してしまえるのも弾き語りの良いところと思う。つかの間の歌はワクワクしながら作れる。ちなみにハープは激ヘタなんである。

当日、バスドラのペダルは壊れてて、本番では共演のミヤザワ君にGのワンコードでボディドリーぽいのを刻んでもらい、同じく共演のジェフ君にフロアドラムをバコバコ叩いてもらって演奏した。ありがとう。時間なくて曲調含め一切打ち合わせしなかったのでBPM200超えてたと思う。うわ、ちゃんとせなあかんかったやんゴメン!と思ったけど、なんとか歌を詰め込んだ。速すぎて死んでしまうかと思った。あぁ楽しかった。

せっかくひとりやし、ひとりでしかやれないこと、ひとりでしか踏ん切りのつかないことをたくさんやりたい。

2012年7月2日月曜日

でも・デモ・DEMO

デモがさかん

再稼動の週末、自分は国会まわりに何万人もの人々が集結する様子や大飯での抗議活動をツイッターやユーストリームでちらちら眺めていた。鮮やかな視覚情報が自分の世界認識に与える影響は大きい。結局のところは誰にも知りえない民意。たかだか10人の人間が集まったって、物申す言葉は10あるはず。選挙みたいに「この中から1人選んで多数決」なんていう胸糞悪い最低のやり方で民意を測れるはずない。国民国家維持する為にはそんなやり方しかないのかなーとか思うけど、選ばれた人たち、そんなことすっかり忘れて胡坐かいてるように思える。国会に何万もの人々が集まったことは、政治家が思い込む都合のいい「民意」がどれくらい現実と乖離してるかってことを直感的に知らせてくれた。

デモ行くか?っていうと躊躇する。サウンドシステム使ったやつとか、四つ打ちの曲がガンガン鳴ってて、だっせぇとか思ってしまう(うそ。大げさに言っている)。きっと原発に関して自分と近い気持ちを持つ人たちやのに、なんでそんな些細な文化的差異に着目して、自分はデモって柄じゃないわーとか思ってしまうんやろ。こういう根性良くない思う。ヒッピーもパンクスも学生もフリーターも金持ちも子持ちも、てんでバラバラで、バラバラのまま反原発の意志の下に集まるっていう、当たり前のデモの姿も、自分には馴染みが薄い。個人主義を履き違えてバラバラになって、結局権力に都合のいい捨て駒になってしまったような気がする。