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2012年10月29日月曜日

ろーど・とぅ・いちじょーじ

ドタバタの一週間が終わった。その締めくくりが昨日の一乗寺喫茶「のん」での弾き語りライブだったわけやけど、ライブ一本やるのに何故こんなにもドタバタしたかというと…

小さな喫茶店での弾き語りライブ、全部で3組の出演者も近しい人たちばかりってことで、リーさんに誘ってもらった時から「1曲でも何か一緒に演れたらいいな~」とか思ってて、しかしなかなか妙案浮かばぬままライブまで1週間を切ってしまっていた。自分の歌を精一杯歌えればそれでよいか~、とも思えたので、特に落胆するでもなく。

で、先週の月曜日、閃き(いや閃き未満の心の機微)があって、ちょっと「あッ」となる。武蔵野タンポポ団という大好きなバンドに「サンフランシスコ湾ブルース」という大好きな曲があり、そこで歌われる「一緒に歩こよ吉祥寺の町を」 という一節を「一緒に歩こよ一乗寺の町を」に替え歌したらオモロいな~(一乗寺の喫茶店で歌えたら最高やないか…)という思いつき。


で、火曜日にフィルムカメラのデート用電池交換なんかでブログ更新してることからも窺えるように、火曜日のお昼くらいまでは「まだ絵にも描いてない餅」のようなものだった。が、その後もう一度ユーチューブ見て久々にサンフランシスコ湾ブルースを聴くにつれタンポポ団が醸し出すジャグバンド感が最高に思え、「こりゃーやらなあかん」と決意。そしてもし叶うならブルースマナーな「女が出て行っちまう歌」から歌詞を変えて、身の丈にあった歌に直したいと思った(罰当たり!)。ほんで歌詞も出来上がってないのに勢いだけでリーさんに電話、金曜日のお昼にどっかで軽く音合わせしよか~、と快諾してくれる。これで弾みがついた。えいえいえい、歌詞を考える。同一メロディの違う曲になってしまっても面白くないので、歌い出しとか要所要所でタンポポ団のオリジナルの歌詞や押韻を踏襲しつつ、「町を出て行ってしまった友達の歌」にする。無邪気に再会を望める友達というよりかは、一緒におるだけでヒリついてしんどかったりして、離れてちょっとホッとするような、でも忘れられへん友達の歌。「おらが町、一乗寺」じゃないからこそ、たまに行くと思い出すんですなー。

【録音ふんとう記】
そして水曜日、曲が完成したら何としてでもCDにして一乗寺に持って行きたいなどと思い始める。今思うとだいぶ舞い上がっている。ものづくりハイ?バイト中もそればっかり。で、何行かだけ歌詞を残し、深夜2時、バイトから帰宅後録音を始める。「第三の男」のテーマ(エビスビールのオリジナルCMソングだと思ってたわ)を間奏に挿入するアイデアが浮かんだり、オーバー入力してしまったギターソロが偶然イイ音で録れたり、ものづくりハイな時間が続く。

そのまま木曜日の昼になりバイトに15分遅刻してしまう(これだけはやったらアカン)。なんとか20時までバイトして、そのあと21時からスタジオ。もう一人の共演者松ちゃんと音合わせする。ここではまだ「一乗寺」合わせられず、松ちゃんが当日の演目に入れる予定のカバー曲を練習した。

金曜日は丸一日休み。でもちゃんと起きる。CDに「一乗寺」1曲だけだと味気ないかな?と思ったので、前回の作曲家クラブに出品した「あくる朝」との2曲入りにしようと決意。朝イチから「あくる朝」の手直し、具体的にはマンドリンを新たに加えて、靴音のトラック消してミックスやり直した。
昼過ぎ、「一乗寺」音合わせを口実にリーさんと鴨川で落ち合い、夕方までベンチに座ってギターを弾いたり歌ったり喋ったりして遊んだ。ええ昼下がり。

その後、河原町今出川のスタジオスーに駆け込み、その場で個人練を取ってCDに入れる2曲の歌を録音。スタジオ一部屋借り切っときながらMTRに向かってセコセコ歌うのには毎度躊躇する。しかも今回はライブにも使われてるデラックススタジオやった。17時半から借りて、なんとか19時までに終わらせる。1時間半だけ借りられるっていいなと思った。

で、そこから出町柳の駅前駐輪場にチャリ止めて叡電に乗り込む。「一乗寺」のSEに叡電の車内アナウンスとか踏み切りの音を入れようと閃いてしまっていたのだ。鞍馬行きに乗った一回目の録音は失敗、しかも叡電はワンマン運行なので電車を降りる度に運賃持ってかれる!おれこんな時間になんで宝ヶ池駅にいるん?とか思いながらもう一度出町柳行きに乗り込んで録音。おまけに車内アナウンスはノイズが多すぎて結局使えなかった。一乗寺の踏切待ちの音を使うことにする。

帰宅後、MTRに録音した歌声をDAWに流し込んでミックス。ここらへんでイッチョ試しにCD-Rに焼いてみよー、と、用意していた8cm(昔のシングルCDの大きさ)のCD-Rをパソコンが認識しない。筋入り茶封筒に8cmのCD入れてジャケットにするというアイデアが一瞬にしておじゃんになる。だがへこたれない。CD-Rは一般的な12cmのものを使って、A4用紙1枚からええ感じにジャケットを作ることにする。

かおるさんにお願いして、一乗寺踏切の風景と、自分の似顔絵を描いてもらう。ちょっと笑える感じの、でもふざけてるワケじゃない感じの絵が出来上がっていた。このバランスがめっちゃ絶妙。どうでしょう??スキャナーで取り込んでウィンドウズのペイントとかGIMPでトリミング、なんちゅうやり方やねんとツッコミながらOpenOfficeのエクセル的なやつに貼り付けいく。オールフリーソフツ!封筒ジャケだったら、ジャケ(封筒)以外に歌詞カードもデザインせんとあかんけど、A4用紙1枚をジャケにするので、裏面を歌詞カードにすればいい。翌日昼勤なので歌詞カードは未着手で寝る。

土曜日、18時までバイト。ライブに向けて最後の個人練習を19時から予約してるが一旦烏丸高辻の文具店へ。A4用紙1枚で作成するジャケット、A4用紙を単に折ってるだけなので、何らかのカタチで封をしないことにはバラけてしまう。そこで閃いたのが「玉ひも」というやつ。自分も名前を知らんかったけど、封筒なんかで、紐を玉にクルクルっと巻きつけて封するやつ、あれ、あの部分だけ。昼間思いついて市内あちこちの事務用品・文具店に電話したら、一軒だけ、TAG本店に在庫があった。ラッキー!しかし在庫数は2パック(4組×2)のみ。で、バイト終わって行ってみたらレジのお姉さんが「半年以上取り置きしてる在庫があるのでよかったらどうぞ」って、なんてラッキーなんや。

19時から西院で個人練習。21時からは松ちゃんとも合流して、「一乗寺」含めた合奏レパートリーの練習を1時間。こらいけるで~、と帰宅。録音のミックスの仕上げと歌詞カード作り。何に時間が掛かったとか、そもそも何をしてたのかとか、あんまり記憶にない。北陸から取寄せたA4わら半紙をプリンターに突っ込み、壊れないかヒヤヒヤしながらジャケットを刷った。とにかく、朝6時に全部終わる。アイデアが浮かんで歌詞を作り始めてから5日、やれば出来るらしい。ふー。

ええ感じのイラスト。印鑑も効いてるわァ


そしていよいよライブへ。書きたいこと山ほどあるが、今朝より見事なタイミングで風邪を引き始めてしまって、今日はこれ以上パソコン見るのやめとこう…。喫茶のんも、無事降り止んだ雨も、みんなのライブも自分の演奏も、お客さんとの会話も、打ち上げで食べた焼肉も、総じてすばらしい一日でした。

2012年6月3日日曜日

ロックは死にまへぇぇん!(苦笑)

今日の昼勤ヒマや。よかった。 さっき思ったことを書きたい。どうやって書くのか。書けるか

ルーズなロックンロールが好きで、ある種のレコードを聴いてると、ちゃんと「あ、これこれ。これだよ~」って思う。でも音楽を表した言葉って面白い。「ルーズなロックンロール」において、一体なにがそれを「ルーズ」たらしめたのか、「ロックンロール」たらしめたのかは、実はよく分からんままじゃないのか。いや、聴いたら「分かる」んやけど、言葉で表せない(≒分からない?)ってことか。「音そのもの(再生されたレコード)」から「ルーズなロックンロール」って言葉を導いたくせに、「ルーズなロックンロール」という言葉から、その何たるかを説明することの困難よ!

いま思いついたキッカケが「ルーズなロックンロール」というフレーズだったので変な例えになってるけど、たぶん「ロック」とかもそう、言葉全般がそう。

言葉を使ってものごとを言い表す時、その人は用いる言葉の意味を既に「知って」いないといけない。「辞書的定義を説明できる」といった「知識」としてではなく。なぜならその人が紡いだその言葉は、その人の生きてきた時間の中で、ずーっと再生産、内面化されてきたもので、辞書なんか引かなくてもとっくに「知って」いるから。

例えば「ロック」って言葉なら(なんかダッサ~)、その人にとって信頼に足る他者による「ロック」という言葉の使い方や、その人が観たテレビ番組、読んだファッション誌、友達がやってるバンド、好きなレコード、etcetc…あらゆるものから、その人の「ロック」は形作られる。
だから、目に見た・耳に聞いたものごと・対象物を、類型的に「ロック」である、と導くことは容易でも、「ロック」それ自体を言葉で説明することが困難になってしまうんじゃなかろーか。言葉のふるさとはあちこちに散らばっている。辞書には何も載っていない。

同時に、その人自身がその言葉「ロック」を用いてものごとを言い表すことで、再び「ロック」はその意味を生産し、その人にとっての「ロック」は更新される。
で、面白いのは、ある人が「ロック」って言葉を使うということは、「ロック」そのものを更新・改変し得るということじゃないか。なぜならその人もまた、誰かにとっての「信頼に足る他者」であり得るから。
「ロック」の使い方、例えば「がいこつ」マークに「ROCK」をあてがう。個人的にはこういうのが一番つまらんタイプの運用で、何の意味も生み出さない。でも、これも最初の頃は偉大なる更新・改変だったんじゃないかなと思う。音としての「ロック」は、「がいこつ」と全然関係ない。例えが下手で悲しい。
もうひとつ。どう聴いたってくだらないバラードまでもが往々にして「ロック」に含まれてしまう理由。そういう場合の「ロック」は多分に属人的である。それを歌う歌手の出自、言動、過去の作品、バンド編成か否か、といった記号が、ロックと親和性の高いものであった場合、くだらないバラードは「ロック」に吸収されちゃうんじゃなかろうか。「ロック」の越権。そしてこの越権行為はあらゆる言葉が普段から行っている。

きっとそんな風に、更新・改変、ときに領土の侵略を繰り返しながら意味を再生産することで「ロック」は今日まで寿命を延ばしてきたんやと思う。それゆえ、更新の度にあちこちでその正当性・真正性が争われるのだ。「あんなんロックちゃう」という風に。誰かが「ロックは死んだ」とか言ってるとき、「ロック」は別の方法で生きのばしている。本当に死ぬものは、それについて語る人も居なくなって、ひっそり死んでいく。

2012年5月31日木曜日

中古レコードの効能

ゆうべツイッターで「 #想い出のレコード店を語って自慢しよう」っていうハッシュタグがすんごい盛り上がっていた。基本的にはもう店をたたんでしまったレコード屋さんにまつわる想い出で、ツイッター人口の多さからか東京の話が多かったけど、読んでるだけで今すぐレコ屋に行きたくなるような話だらけだった。

レコード屋さん(中古レコ屋)って不思議やなーと思う。産業分類としては「中分類60-その他の小売業」になるんやろか。中古品やし、日本レコード協会の言う音楽産業市場だとか、あれこれのランキングだとかの数字には含まれてないはず。大きな動向とは無縁の物静かな場所。とはいえ、音楽の深みにはまるにつれ、中古レコード(や中古CD)から探すって選択肢は必然的に増えるやろうし、いま音を出してる音楽家たちが「新譜だけディグしてます!」ってのも考え難い。中古レコードが音楽を回してると平気で思える。

アマゾンは?ヤフオクは?って話になるけど、何故か自分はそのどちらもあまり使ってない。なんでやろ?ビニールジャンキー(蒐集家)たちのインタビューとか読んでても、欲しいものは手に入れる!と割り切って積極的に使ってるっぽい。でも思えば自分は、アレとコレを探してて、幾らまでなら出せる、みたいな感覚ではレコードを買ってないのかもしらん。これまでの暮らしの中であっちこっちからツマミ食いで仕入れた、何とはない情報の堆積(そしてそれらは全く体系化されてない)が自分の中にあって、レコ屋ではいつも膨大なレコードをめくりながら、ピンとくるやつが引っ掛かるのを待ってるという感じ。メディア論でプッシュ型/プル型って話があるけど、レコード買いにも当てはまる気がする。「おれはこれが欲しいねや」ってアマゾンとかヤフオクで決め打ちする「プル型」、何の身構えもなくレコ屋に行き、めくられてくるレコジャケ(遠い過去からの見当外れのプレゼン)の中から、自分に引っ掛かる一枚を待つ「プッシュ型」。どっちかに完全に分類出来るってことではないけど。

当然、昔のニューオリンズ音楽聴いてみたいなって気分の時に、数年来気に懸けてたガレージのコンピと出くわしてしまう(そして買って帰ってしまう)ような事が多々あって、それは普通の買い物で例えるなら歯ブラシ買いに出てペンキ買って帰るくらいの違いがあるんやけど、だからこそ、到底繋がりそうに無かった思考回路のミッシングリンクになったりする。あぁ、ほな、お歯黒にしよか、みたいな。

そんなこんなで、これからもレコード屋さんに足を運んでノンキな迷子になりたいぜと思った次第。

2012年4月26日木曜日

人間はモノフォニックなんですか?

忙しくって何も書けんやないか。何のためのバイトやねん
書きたいこと書かなきゃならんことが起こったのに。また今度書こっと。

今日思ったことの中から書くに値しそうなこと
「頭の中で和音を鳴らすことは可能なんか?」

「ジャーン」とか、擬音でそれっぽくしているものの、実は単音しか鳴ってないんじゃないのか。少なくとも自分は単音しか鳴っていない。付随するコード感は全部「想像」の産物。

さらに言うと恐らく人間の口はモノフォニックだ。知る限りホーミーってやつでしか和音は鳴らせない。ホーミーも和音というより基音と倍音っぽい音を継続して鳴らすのみで、和音を歌うって感じには程遠い。

つまり、なんらかの曲を頭の中で想起する(鳴らす)とき、元の曲が何和音であれ、どんなアンサンブルであれ、全てが単音に還元されて鳴るってことにならんか。お気に入りの曲でやってみよう…

メロディ、ギター、ドラム、キーボードの旋律、次々にその時々で一番象徴的な音が前面に浮上してくる。間違いなく原曲があの曲だとわかる。でも、でも、頭の中で鳴っているのは常に単音。

単音でしか音を鳴らせない、単音でしか音を想起出来ない人間が、和音(あるいは同時に発音された複数の音)を聴くことで心に興るもの、とは。もしや音楽の根源的な秘密に辿り着いてしまったんじゃないのか。 良いところでタイムオーバー。

2012年3月23日金曜日

音楽が嫌いとだって言える

さて、何書こかしら。

ゆうべ友達のライブを観に行ったけど、友達のバンド以外の出演者がまるでいかさなくて、しかし会場に付き物の「聴く態度」というコードがなんとなく存在し、人と行ってたこともあって、だらしなく抜け出すことも出来ずにしんどい音楽体験となった。

音楽を好きでいる、とは

「音楽は国境を越える」的言説に象徴される、無邪気で牧歌的なものではないと思う。この手の言説で使用される「音楽」という言葉の運用のあいまいさ(あくまでそいつの思う「音楽」に過ぎない)、そしてそいつの言う「音楽」が、国境や地域文化、歴史といった共時的/通時的な諸制度を易々と越える普遍性を持ってる、とでも言いたげな驕りが見え透いてむかつく。べつに「国境を越える」って言葉だけをあげつらってるんじゃなく、往々にして無前提に「音楽」に込められる思い上がったイメージに違和感を覚える。

たいてい、思い上がりの「音楽」観に基づく物言いには、誰の目にも明らかな悪意は込められていない。だからこそたちが悪いんだと思う。悪意のない行為や発言は、明確な悪意を持つそれらよりも余程抵抗が難しく、断りづらい。行為者/発話者が無自覚なだけでなく、行為された/言われた側の者が「侵害された」自覚すらないままに、相手の論理に取り込まれてしまうようなとこがあるように思う。


今朝読んだ「音盤時代」で湯浅学さんが書いてたけど、「音楽も制度である」(←バイト先なので引用できないけどすごい文章だった)。音楽が全てから自由に存在するわけない。


そんな、「音楽」と称されるものの中から何かを好きになってしまうこと、それを別の言葉で言い表すなら、何らかの価値体系への否応なき参入であり、例えば美/醜や良/悪といった価値観を内面化してしまうことじゃないんだろうか。あらゆる価値体系の束縛から逃れながら、楽曲や演奏家、ジャンルなどに対して何らかの価値判断を下せる、ということはあり得ない。そして価値体系はその名の通り「価値」に基づく体系であるから、優劣、序列といった眼差しから逃れられないように思う。「A」を「良い」と思う視点を有しながら、「Aでないもの」をフラットな視点で見ることなんてできるのか?

つまり何が言いたいのかというと、自分には「好きな音楽」があり、たくさんの楽しみを享受してきたが、同時にそのことが排除してきた嗜好や価値規範が必ずある。また、基本的には自発的に受容するもの、という音楽の性質ゆえ、「好き」性ばかりがフォーカスされることで、「A」を好きでいる時、同時にコインの裏側にある「Aでないもの」への眼差しは隠蔽されている。 音楽が好きな自分は、同時に音楽が嫌いなんである。ゆうべは強烈にそれを思った。

2012年3月15日木曜日

無関心を装うのかぇ

政治的態度の表明について。
何かをやってる人(対マスに表現活動を行う自律した個人、とかか?)は政治的態度を表明すべきなのか。大友さんが文科省の芸術選奨を受賞すべき/辞退すべきっていうネット上の言論を見て(大友さんも文科省もまるで知らんけど)、収拾つかんでもいいから考えてみようと思った。

自分の好きなミュージシャンの中には、政治的態度の表明がアイデンティティに還元され、ミュージシャン自身の評価に直結してる人がたくさん存在する。バンド自体が反○○を目指しているような場合もあれば、特定の曲にメッセージを託してる場合もあるし、ティーシャツにNO NUKESて書いてるだけの歌手(本業じゃ間に合わんかったのか?)とかも表明といえば表明やと思う。自分のこういう物言い(政治的態度の有無でミュージシャンを分別、カテゴライズしてしまう聴衆の態度)に象徴的に見て取れるけど、すでに「政治的であること」は表現活動を行う者すべてに包括的に要請されるものではなく、他の態度と並列するひとつのスタイルになってしまったんじゃないか思える。例えて換言するなら、いま、ある音楽家が原発への意思表示を一切怠り続けたとしても、その沈黙は批判対象とはならず、彼の音楽家としての矜持はこれまで通り保たれるんじゃないか。

自分が音楽に親しみ始めたのがちょうど2000年くらい。同時代の具体的な政治的局面を主題に据えた歌やミュージシャンの態度が、当時中学生の自分にまで届くことはなかった。確かブルーハーツのチェルノブイリを聴いたのが初めての“プロテストソング”体験やったと思う。短絡思考の中学生には、パンクだとかロックがまとう破滅的・退廃的・非持続的etc...な表象と、反戦平和の称揚や政治的・社会的意思の表明が矛盾と映ったのか、直感的に「変なの」って思った。同時に、メジャー会社から発売できず自主販売したとかいうセンセーショナルで魅力的な伝説に、ポップにおける「政治的メッセージ」の効果を内面化したりした。自分が音楽に親しみ始めた2000年、「政治的であること」は、聴衆レベルではひとつのオプションとしてとっくに外化されていたと思う。

とはいえ、中学生の時に抱いた「変なの」って気持ち、本当に安直な思考による誤りだったのか?ステレオタイプな(古き良き、ちゃんと政治的意思を表明していた頃の)ロック、ロッカーって、大抵つまはじき者、自己中心的でろくでなし、社会性のない奇人変人とかのイメージで売られてる。一体そんな奴がどうして自己矛盾なく社会的問題にコミット可能なのか?言い換えるなら、いかにしてロックという土壌は利己的な個人に公共性を獲得せしめたのか?……こんなんバイト終わるまでに絶対わからんやないか。

とにかく、アイドルが社会的諸問題に無関心でも何ら問題なく、ロックがそれに無関心であることは問題(だった)って、えらい違い。宣言どおり収拾つかず。いつか考えがまとまりますように。

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翌日の追記
あれからぼんやり考えてたけど、やっぱり「何でロックが自己矛盾なく社会的問題にコミット出来るのか?」「何でロックは利己的個人に公共性を獲得せしめたのか?」っていう問い自体に、政治(的な言動、振る舞い)をすっかり対象物として疎外してしまった自分の姿が透けて見える。

一つの仮説。物凄い不躾な言い方をするなら、身勝手なロック歌手は「おれのことわかるやついるけ」と、とにかく「おれ」本意で歌を歌う。ならば、「おれ」の内に政治的課題が根を張っていさえすれば、例えば女、車、金や未来のなさ、etc...みたいな典型的な主題と何ら矛盾なく並列するんじゃないか。85年に生まれて都市圏に育った自分は市民失格ってくらい寝ぼけてるのかもしれない。





2012年3月5日月曜日

尻尾を掴む

曲の尻尾を掴む感じが訪れた。結構惨めなことを記すことになると自覚した上で、敢えてその感じを文字に起こしてみようと思う。

えー、土曜か。土曜日は金曜に済まなかった洗濯の続きをこなす必要があって、さらに昼から用事もあったから、家事の隙間に何となく弾き始めた確か。最初に気付いたのは、今ぽろぽろ爪弾いてる4小節の繰り返し気持ち良いな~と思ったあたりで、進行自体は全然新しくもない。繰り返し弾いているうちに何となくメロディも出てきて、鼻唄歌いながら弾いていた。その辺りで、先日の日記以降気にかけてた「尻尾を掴む」てことを思い出してたはず。

まぁ、舌の根も乾かぬうちなので、たいそう大事に思い込み、警察から戻ってきたばかりのアイホンにボイスメモとして記録、ノートにも尻尾らしきもの(曲の感じとか歌詞とか)を出来るだけ記した。で、洗濯物も干していよいよ用事に出掛けなくちゃならん、となったところで、何となくBメロらしきものの尻尾がかすめてったので、それも2重に(アイホンとノートに)メモして、遅刻。我ながら良い遅刻をしたなぁと思う。

万全の体制、すごい意気込み。最初はおっそいテンポでアルペジオの感じやったけど、土曜の夜バイト中に、シャッフルにしてテンポを倍にする案も思いついたりして、得意気になったりした。と、まぁここまでは生活の中で度々かすめる尻尾を掴んだだけ、きちんと記録しただけ、という事なんやと思う。先日の日記に記した、「日々の暮らしに熱を奪われるまでの短い時間にどこまで形作れるか」ってところが課題なはず。その点、土曜昼に外出して以来、土曜の夜は26時までバイト日曜は10時起床20時までバイト帰宅後は大至急のビラを書かねばならずそのまま寝落ち月曜は9時から17時までビラ作成にかかりっきりで18時からバイトほんで今20時32分。要するに熱いうちに妙案奇案こねくり回せてない。多分これはまずい。

そう、作りかけの曲が実を結ばず死産となるのは大抵こういう時だと何となく知っている。日々の余計なものどもに気を取られているうちに、やっぱそんなに良くないかな~とか、徐々に弱気になっていって、熱が冷めてしまって忘れ去られることとなる。また、現時点で最後に作った自作曲が2週間ほどで出来たことを考えると、今しかないがな、という気持になりバイト先で焦る。有線うっさいわ~

あと、初動(尻尾掴みたての熱くて短い時間のことです)で完全に仕上げてしまう必要はない、とも思う。前述の最新自作曲も、2週間で出来たとはいえ、綻びが目に付くので歌詞を変えたりキー変えたりBメロを加えたりした。いま演奏してるバージョンになったのは去年10月ごろ?やろうか。初動期間(最初の2週間)から2年近く経っている。要するに、初動期間中に勿体無くて後戻りできない(放置できない)ぐらいのところまで形作ってしまうのが肝心要なんじゃないかと思う。そこまでいけば、歪でもレパートリーに加えてしまえば、後は良い方向に向かってくれるはず。

2012年2月28日火曜日

彗星の尻尾

曲ができない。中3の頃からずっとこんな調子なのであまり気にしてなかった。でもやっぱり他の人の曲作りなんかを目にすると、自分は病的だ、代謝不全だと思う。こんなもんに健全も病気もないやろうけど、現に今のバンドで定期的に演奏を行うようになって以来、新曲ほし~い!と強く思ってて、ついに焦っている。


自分にとって曲とは、日本語の詞の付いた歌である、というぐらいの思いしかない。ここでロックとか言うとややこしくなる。ほんまにそれだけ。自分のわかる言葉で歌える歌が作りたいだけ。自分が知ってるたくさんの名曲、例えばコード進行に分解してみると実にシンプルなコード循環が支えているし、そこで歌われる歌詞も「そのとーり!」と頷けるような平易な言葉で書かれている。ギターを弾くようになってから聴く名曲は、誰にでも手が届きそうな材料と少しのアイデアで作られているように思えたし、今でもポップの本質はその辺に転がっているんじゃないかと思う。


じゃあなんで出来ないんやろ?いま歌ってる数少ない自作曲がどうやって出来たのかも全然思い出せない。まるで元々その形で存在したものを偶然自分が発見したみたいな感じがして不思議な気分になる。ただ、閃きだとか、尻尾を掴む、みたいな感覚は夜遅くにギターを弾いてる時とか、何気なく自転車に乗っている時、しょっちゅう訪れる。明日は朝早いとか何とか言って、往々にして蔑ろにしてきたそんな瞬間は、何かを作る人にとってめちゃくちゃ重要な一瞬やったんやと思う。その一瞬の閃きが、日常生活のあれこれに熱を奪われてしまうまでのとても短い時間に、どこまで熱を持続させて形に出来るかってことじゃないか、と漠然と思う。夜中に書いた手紙(主にラブレター的なもの)を、白日下で改めて読み返し、恥ずかしさに悶絶するみたいな話があるけど、曲作りもそんな感じで、たいてい熱に浮かされて書いた詞だとかには翌朝自分で愕然とする。作ったものをポップとして成立させる為に他者の承認(あるいは自分に恥ずかしさをもたらす類の客観的な視点)は不可欠だとは思うけど、ほんの数時間前、ゆうべの夜中確かにあった一掴みの真実(らしいもの)は、きっと間違いそのものではない。なぜならそれはこれまでの自分の、ありとあらゆる蓄積から紡がれたものであり、その蓄積は自分以外の他者から受け取ってきたものだからで、自分の価値規範を否定したいのでもない限り、肯定されるものだと思う。いま自分にできる事は、引き続きの蓄積、閃きのありそうな状況に身を置くこと、恥ずかしい閃きを蔑ろにしないこと、って感じなんやろか。明日は拾得でライブ。閃きがありますよーに。

2012年2月9日木曜日

届かない手紙(糞)

ゆうべは相変わらず掴み所のない演奏やった。

去年の5月に今のバンドで初めて演奏して以来、何回ぐらい演奏したんやろ。ライブってのがいつまでたってもよく分からんまま。

出番は大抵平日のトップバッター。おおむね客ではなく対バンの人たち(の内、客席で観てくれる奇特な2~3人)を前に演奏する。平日19時のライブハウスはすごいぜぇ。緊張とかライトの眩しさなんかでステージからの客席は真っ暗に見えるけど、ほんまに暗闇に歌ってるだけの気分が残って終わる。他者不在。

ほんとに知名度のない我々ぐらいのバンドって、恐らくメールアドレスを知ってるくらいの親密圏内の人たちを呼び寄せて客席の賑やかしに(そしてノルマの足しに)するんやろな、ってのは何となく理解している。(同時に、それらの集客はそのまま入場料とか飲食代としてライブハウスの収入源に直結してるってことも。)とはいえ、毎度毎度友人知人恋人親戚etc...を誘うって妙な話と思わんかね?おれは思う。
もちろん、バンドの友人であることと、そのバンドを観たい気持とが矛盾なく共存するケースはあるし、ひと月に何回以上誘ったらおかしい!とか線引きは出来へん。友達が別の友達を誘って、とかで広がる輪もあるんやと思う。
過去出演したライブハウスで演奏後に店長やブッキングの人から「ちゃんとお客さん呼んで」って旨の話、耳の痛くなるほど聞いたし、ライブハウスを取り巻く状況も考えたらその通りなんです。が。
敢えて「バンドワゴン」って映画の台詞を借りるなら、「おれは誰も知らないし誰もおれを知らない」のです。ああ!

観客あっての音楽やとつくづく思う。

不躾ですが全ての文化生産物は「糞(くそ)」と断言出来ます。ところで、糞を糞たらしめるあのウンコ臭、糞が肛門から排便され空気に触れて初めてあの臭いを放つ、という話は非常に示唆に富んでると思う。体内にいくら糞を溜め込もうとも、外にも出ず臭いも放たない糞は、糞であって糞でない。糞は糞して糞になるんです。

音楽だって誰かに聴かれなくちゃ、レコードはただの塩化ビニール、MP3はただのデータ、まして楽譜やメモ帳の上で音楽は鳴らない。今まではメモ帳に詞を書いたり、スタジオでメンバーと音を出したり、自分の内側で糞を生成すればそれで全然音楽やれてるんやと思ってた。けどそれは他者不在の独白、ずっと届かない手紙やった、というお話でした。

2012年2月6日月曜日

追放の歌

今までずーっとエレキバンドでギターを弾くばかりで歌うなんてとてもじゃなかったけど、去年の5月くらいから自分のバンドをやり始めてギターボーカルの人になって、今回初めて弾き語りの誘いをもらった次第。ちなみに自分は歌声が致命的にダサい。

また、自作曲も致命的に少ないので誰かの歌もやりたいなと思ってて、昨日まで何も思いつかなかった(好きな曲はたくさんあるのにね)けど、今朝ふと「追放の歌」を歌いたいと思った次第。
これ1969年の曲やけど、2012年NOW、仲間外れのみなさんそして自分のことを歌ってる、って心から思えるすごい曲です。


この曲然り、自分の好きな曲ってサビらしいサビがないものが多い。もちろん例外はアホほどあるけど。<Aメロ→Bメロ→サビ>みたいな構成が支配的なポップスの中で、Aメロ(というか1番)の中に全てが入ってて<1番→2番→3番…→n番>って感じで終わる曲は一際まぶしく見える。Aメロはサビの従属物ではない、と思う。

たぶんブルースが根っこにあるロックンロールって、ブルース進行の12小節に言いたいことを詰め込んで3番まで歌ってジャーンで終わる美学みたいなのがあるんやと思う。ブルースちっとも聴きまへんけど。そういうロックンロールが好きやったから、1番(2番、3番…、n番)のそれぞれひとまとまりに「曲そのもの」が還元されるような曲が美しく思えるんかも。
サビのために薄まったAメロBメロでどうでもええこと言うくらいなら、とびきりのスリーコードで12小節を3回駆け抜ける方が名曲、たぶん。

明日、そんな自作曲と追放の歌を歌いに行きます。