2012年4月26日木曜日

人間はモノフォニックなんですか?

忙しくって何も書けんやないか。何のためのバイトやねん
書きたいこと書かなきゃならんことが起こったのに。また今度書こっと。

今日思ったことの中から書くに値しそうなこと
「頭の中で和音を鳴らすことは可能なんか?」

「ジャーン」とか、擬音でそれっぽくしているものの、実は単音しか鳴ってないんじゃないのか。少なくとも自分は単音しか鳴っていない。付随するコード感は全部「想像」の産物。

さらに言うと恐らく人間の口はモノフォニックだ。知る限りホーミーってやつでしか和音は鳴らせない。ホーミーも和音というより基音と倍音っぽい音を継続して鳴らすのみで、和音を歌うって感じには程遠い。

つまり、なんらかの曲を頭の中で想起する(鳴らす)とき、元の曲が何和音であれ、どんなアンサンブルであれ、全てが単音に還元されて鳴るってことにならんか。お気に入りの曲でやってみよう…

メロディ、ギター、ドラム、キーボードの旋律、次々にその時々で一番象徴的な音が前面に浮上してくる。間違いなく原曲があの曲だとわかる。でも、でも、頭の中で鳴っているのは常に単音。

単音でしか音を鳴らせない、単音でしか音を想起出来ない人間が、和音(あるいは同時に発音された複数の音)を聴くことで心に興るもの、とは。もしや音楽の根源的な秘密に辿り着いてしまったんじゃないのか。 良いところでタイムオーバー。

2012年4月23日月曜日

第二回作曲家クラブ

昨日は第二回作曲家クラブ品評会だった。前日の夜中までどうなることやら全くわからんかったけど、集合時間に1時間遅刻してギリギリ間に合った。くわばらくわばら

記憶の確かなうちに作曲~録音にまつわるメモを残しとこうと思う。
先週金曜夜に書いた前回の日記の時点で、コード循環とメロディが浮かんで、それに引っぱられて歌詞のイメージを掴んだっていうところやった。今思うと全体の2%ぐらいの進度やんか。で、金曜深夜帰宅後すぐ歌詞や展開をちょっとだけ考えて、まあいいやと寝る。

土曜は昼前に起きてまずスタジオ個人練習予約。今回はアパートでぼそぼそ歌うんじゃなく、スタジオで(あるいはカラオケボックスで)歌の吹き込みをしようと前々から考えていた。ノートパソコンやオーディオインターフェイス、録音機材類を自宅外に持ち出して録音する経験もしてみたかったし。夕方は空きがなくて結局21時-23時を予約。

21時までになんとか大体の歌詞と曲の展開をでっちあげてスタジオへ。
まずは1トラック目に仮ギターを録音する。歌を録音する時に、イヤホンから仮ギターを流して、それに合わせて歌うから。ボーカルのソースが欲しいだけなので手短に済ます。

歌を録る。
DAW上での波形編集じゃなく、実際に2回歌ってダブリングにするつもりなので、平歌もコーラスも全部2トラック分歌う。ここ何時間かで作ったばかりやから、日本語のアクセントに対応する微妙なメロディの差異に苦労しまくる。しかも依然として3行分くらい歌詞に穴があって、その部分の歌は録音していない。

とりあえずドラムを録る。
オーディオインターフェイスの同時入力数がたったの2つなので、一本目のマイクをバスドラに突っ込み、二本目をスネアにオンマイクでセッティングする。ミキサー使って2ミックスを流し込む程の気力も技量もないし。ドラムの録音自体はめちゃくちゃ楽しかった。ドンドンタンドカドカドンタン

思いきり23時を回ったので店員さんに24時まで延長する旨を伝え、時間ぎりぎりでなんとか残りの歌詞とその部分の歌の録音を終えて帰宅。

アパートで夜中に出来ること、って考えると、スタジオで録った波形の編集だとか、エレキベース、エレキギターのライン録りくらいしかやれることがない。ドラムがあんな録り方やったのに結構カッコ良く聴こえる。なんだかんだで朝7時までかかってようやく寝る。

朝は10時に起きる。集合時間は13時。
もう陽も昇ってるので、マラカス、カウベル、ボンゴ、 ギロと、持ってる楽器を総動員してブガルーになれ!なれ!と祈りながら録る。間奏とかアウトロ寂しい、と思ってギリギリに適当な鍵盤を入れようと思い、一時間遅刻する。

で、出来たのがこの曲。相変わらずスパムサイトからしかアクセスがないのでちっとも恥ずかしくない。


今回もまるで違う3曲が集まってめちゃくちゃおもろかった。みんなの思考回路の違いが音になってた。ブガルーじゃないじゃん、とつっこまれつつも、誰かがスマップみたいやな、と言ってたのが一番嬉しかったなぁ。言いたくないことやりたくないこと何一つやらず好きなことやってスマップならほんま最高って感じ。歌のバックグラウンドは90年代と多摩あたり。ビール飲んでたらおれに会ったよ、という歌。



2012年4月20日金曜日

第二回作曲家クラブ迫る

次の日曜日すなわち明後日、作曲家クラブ第二回品評会がある。今回のお題はブガルーだった。

第一回品評会の時に今回のお題が発表された直後、ジェットセットでブガルーのレコード買ったりして、今回からは時間かけてちゃんとやるつもりやったのに結局この体たらく。レコードだけは買ったけど。聴いてたけど。曲作ってへんがな。今日夜中までバイトやがな。


参考資料はこのレコード。初めてこの享楽的なレコード聴いた時から、曲名は「YOPA-RATTA」にするって決めてる。酔ぱらった。でもそっから何一つ思案を巡らせぬまま今日まで来てしまった。少なくともこのアルバムにおける「ブガルー」は、ギロだとか、主に名前もわからぬラテン打楽器といったリズム隊に定義されているんかな~、とぼんやり感じていたので、とりあえず曲と歌詞からやっつけねばならぬ、と今日のお昼に決意。後手後手だァ


ギターを持ってあれこれ考えてたけど、スリーコード、ブルース進行でええんか?それで満足か?っていう欲をかいてしまい、とっかかりのコード循環がブガルーから遠ざかってしまった。
ⅣM7→Ⅲm7→Ⅵm→Ⅰ7って感じのやつ。書き方合ってるのかわからんけど、ドリカムの「決戦は金曜日」とかで循環してる例の進行。普段は全く縁が無い。しかしながら窮地に立たされた今日、ギターを触ってたらこれが出てきた、ってことは、そういうことなんだろう。と思い込み、これで行くことにする。

さて、どんな曲に?とりあえず「酔ぱらった」という享楽性は残したい。ビールビール!発泡酒発泡酒!と志すものの、コード循環がメロウ過ぎて徐々に切なさを帯びてきた。やばい。二兎を追ってニワトリ捕まえてしまうあの感じや。でもそれって曲作りの醍醐味やと思う。ギターとか言葉に引っぱられて、作り初めには予想もしなかったような所に連れて行かれる感じ。それを歌い手のキャラクターや音楽ジャンルに合わないとかで排除してしまうのは本当は不幸なことなんじゃないの。それだって間違いなく自分の蓄積から出てきたものなんやしね。この企画、作曲家クラブでの自分は恥も外聞もないから、やっちまうのだ。

と、いうわけで、児童公園でビール飲んでたらおれに会ったよ、という風な曲のゲシュタルトが朧気に浮かんできたのが16時くらい。どうなることやら。ベティにご飯あげたり部屋の片付けしてたらバイトの時間。




ママチャリ改造(パート1.5)

細かい変更も書いていこう。

早く替えを見つけないと近々ベロンといきそうやったカゴ【写真1】、良いのが見つかった。町の自転車屋に行っても気に入る感じのが全然ないので、ヤフオクを探してみると300円で出てた。だっさい新品のカゴが大体2000円くらいって考えると送料500円掛かってもまだ安い。ミヤタの80年代?頃のやつ【写真2】。いつ使うのか、ガルウイングみたいにカゴが開く【写真3】。かっこいいわ。

【写真1】

【写真2】
【写真3】
ただ、カゴの深さが若干浅くなったから、元の22インチのカゴ足ではカゴに届かず、近所の自転車屋さんで恐らく24インチ用のカゴ足【写真4】を買うことになってしまった。1000円。かっこええから全然大丈夫。以前のカゴよりもワイヤーも太くなって、たゆみも少ない。ギター載っけても全然へこたれそうにない。
【写真4】
もっと些細なことも。
両足スタンドのバネを失くしてしまってた。大したことちゃうやろ~って思うけど、バネなしでスタンドを立てようとすると、最初に足で「ガチャン」とする部分(名前わからん)が、勝手にスタンドをロックする方に入ってしまい、片足だけでスタンドを立てるのが困難になってしまって、駐輪場などで毎回ほんの少し不快な思いをする。ホームセンターの自転車パーツ売り場で、両足スタンド用交換バネとして198円で売ってたので買って付けた【写真5】。バネが強力過ぎて装着にめちゃくちゃ苦労したけど、やっぱ随分違う。ワンアクションスタンド。
【写真5】
で、ダイアコンペ製のメタルリンクブレーキ、デュアルピボットブレーキが届いた【写真6】。
こちらもヤフオクで、同一出品者だったから送料込みで3500円。自転車屋さん見つけるたびに聞いて回ってたけど、どこにも置いてなかったし、定価よりか安く買えたしまあいいや。はやく取り付けたい。
【写真6】










2012年4月17日火曜日

また何もやらないつもり?

大事な場所が失くなるかもしれない。当事者たちの意思を無視して。今朝、噂レベルじゃなく、ほぼ公式にアナウンスされた一つのニュース。ただその場所を失うかもしれないってことだけじゃなく、この世界を取り巻いてる色んな落胆をひとまとめにプレゼントされたような感じがする。

まず、「場所」それ自体について。

もちろんその「場所」はまだ残ってるし、その場所を取り巻く人々が現出させてきた/させる<場>も残ってる。自分はその「場所」のいでたち、外からの見た目に魅了されてその場所に近寄っていって、次第に当事者のひとりとなった。それくらい、その「場所」そのものへの愛着はある。でも、きっと「場所」はただの入れ物に過ぎない。むしろ、これまでその場所をその「場所」たらしめた、人々や人々の営みのあり方といった「中身」=<場>が残るかってところが肝だと思う。<場>が途切れさえしなければ「場所」はつくれる。いまある「場所」だって、「○○のための場所」として用意され与えられたものではなかった。人々に語らいや思いつきや閃きをもたらした<場>の存在が、いまある「場所」の場所性・唯一性・代替不可能性を、長い長い時間の中でつくり上げてきたのだ。でもやっぱり、そんな<場>を醸成する入れ物としての「場所」に、物理的、空間的、時間的な断絶が与える影響がどれほどのものなのか、全然想像出来ない。

「決定」のあり方について。

今朝の知らせにはもっと嫌なとこがあった。その場所のあり方について、これまでずーっと、当事者と権力側との間に話し合いが持たれてきた。当事者、権力側双方が納得合意の上で従うべき大原則として、話し合いの原則があったから。でも、今朝の知らせには、権力側の話し合いの拒否、物理的暴力装置を用いた強制排除の意向が記されていた。もしその通りになってしまったら、これまで面倒臭さや非合理性に手を焼きながらもなんとかやってきた(直接)民主主義に最低最悪の汚点を作るんじゃないのか。

「自分の意思を無視して下された決定に、結局は従わされる」という決定のプロセス、この世界に生まれて以来、徹底的に叩き込まれ、常日頃「しょうがない」と納得し、それが不正だという感情さえ発露することなく、とっくに諦めてしまっている。「選挙で選ばれた為政者によるものだから仕方ない、民主主義ですもん」みたいな論理によって正当化され、ため息ついて終わり。

一握りの権力者に不都合な不平不満を黙らせるためのロジックとしてしか民主主義は機能してないんじゃない?彼らに拳銃や暴力を預けてしまったこととか、誰かに票を投じて多数決で問題ナシ、みたいな民主主義のあり方って、常に猛省が必要なくらい合理最優先で大雑把な仕組みやったんやと思う。

そんな世界で毎日暮らしながら、ふとあの「場所」の空気を吸うたび、ハッとしてピリッとする。本当に最後の砦だとか思えてくる。あの「場所」が失くなってしまったら、<場>が損なわれてしまったら、目先の暮らしに精一杯な自分は、そのピリッとする感じを忘れてしまうんじゃないか、と思う。自分の中にある民主主義の理想はそれくらい脆い。

最後に自分のはなし。

こういうでっかい不正に対峙したとき、自分はどうすればいいのか。ほんまに諦めっぱなし、不戦敗だらけの世界に慣らされ過ぎて、体なんか全く動かない。豚ってこういうことか。原発の時もそう。いつだってそう。なんか、その場しのぎのガス抜き方法を上手に見つけてしまって、怒りも悲しみも漂白されてどんどん役立たずになっていく。今回の件が当事者性も含めて、自分にとって大きな出来事になるのは間違いないと思う。権力による愚かな「決定」や「宣言」が、民意によってひっくり返るってところをこの目で見たいし、この手に掴んでみたい。








2012年4月16日月曜日

ママチャリ改造(パート1)

前回諦めたBB(ボトムブラケット)部分の分解に再度挑むのだ。ポイントは、自分のママチャリは「コッタードクランク」だって事と、BB部分は「カップアンドコーン」ってタイプで、恐らく「ワン」と「ロックリング」の二つの部品でBB部分をシェルに固定してる(そしてベアリングの球当たり調整も担ってる)って事。よし。



1.コッターピンを抜く

下調べ(銀輪茶輪というサイトのこの記事、めちゃくちゃ参考になりました)通り、「コッターピンの頭より径の大きい円筒」と「万力」を用いて、コッターピンを抜く。前回はここで躓いて何も出来なかったのだ。【写真1】にあるように、まずは打ち込まれたコッターピンを固定している六角ナットを、外れてしまわない程度のところまで緩める。適当に用意した「大径の円筒」を、【写真2】のようにコッターピンの頭のとこにすっぽり被せる。この円筒、万力に負けへんくらいの強度がないとまずい。でも強度なんて確認しようがないや、と早速万力をぎりぎりと締める。

【写真1】
コッターピンのナットをちょっと緩めたところ。
下に写っている大径の円筒を・・・
【写真2】
コッターピンの頭の方(ナットとは逆の側)にかまして
万力で締めりゃポンッと抜けるって算段


【写真3】のように、だんだんとピンの姿が見えきたけど、なかなかポンッと抜けてくれない。うわぁと思いながら結局ナットも外してしまって、さらに万力を締めるも尚抜けない。【写真4】に見られるように、もうネジの側が全部穴の中に入ってしまった。ピンは依然としてカチコチ。

【写真3】ピンの頭が出て来たけど

【写真4】
ピンではなく算段が外れる。
 もう万力も使えんよ
まずいなぁと思いつつ、一か八かクレ556を噴射しながら、ペンチでぐりぐりやってると抜けた【写真5】。で、【写真6】が刺さってたコッターピン。このクサビ形のピンを【写真7】の穴に打ち込み、後ろ側に突き出したネジを六角ナットで締めることで、クランクシャフトとペダルクランクは固定されるってことなんかな。
【写真5】
結局最後はペンチで抜いた。 
【写真6】
コッターピン。ほんまにクザビ形してる
【写真7】ピンの居た穴



2.ロックリングと左ワンを外す

下調べ(ネットに色んな情報を残してくれた人たちに感謝)の通り、まずは「フックレンチ」を用いて「ロックリング」を外し、「カニ目レンチ」を用いて「左ワン」を外したい。【写真8】みたいにフックレンチをロックリングの凹部分に引っ掛けて、ハンマーでどつく。案外スルっと外れた【写真9】。
【写真8】
フックレンチをロックリングの凹に引っ掛けたところ
【写真9】
ロックリングは簡単に外れた。
あかんやろ
じゃあ左ワンいきますか、と。もうこの時点で嫌な予感しかない。カニ目レンチを見つけるも、パッと見、左ワンの凹部分【写真10】に全く合ってない。実際にあてがってみたけどやっぱり全く合ってない。それっぽい工具【写真11】を見つけてくるも、どれ一つとして左ワンには合わない。

【写真10】
いよいよ左ワンを外したい。
でもカニ目レンチじゃ無理じゃないのかこれ
【写真11】
これら(名前がわからない)のどれひとつとして一致しない
ああ、また諦めんのか、おれは駄目な奴や、とか思いながら再びロックリングを戻し、締めにかかる。そういやここの締め具合って結構大事なんやんな~、とロックリングに目をやると、左ワンが一緒に回ってる。そのこと自体の是非はひとまず置いといて、この左ワン手でも回せるんちゃうか、という希望に胸踊る。再びロックリングを外し、左ワンを手で回して見ると、回った【写真12】。なんと。
【写真12】
手で回してみると回った。
あかんやろ
今しかねぇって気分で左ワンをクルクルと回す。しばらくするとゴトン、と左ワンは外れた。同時にベアリングの球がコトコトと下に落ちる。慌てて回収しながら、汚さに唖然とする【写真13~14】。事前にネットで見ていたどれよりも汚く感じた。チャリこいでてカリカリ言ったり、稀にバキッて言う割りに、左ワン側のベアリングに大きな欠けとか割れは無いように見える。右がえらいことなってるんかな。
【写真13】
 左ワンとベアリングの球たち。
でっかいゴミも一緒に出てきた


【写真14】
左ワンの内側。
終わってるなァ
でも時間的にも気分的にも右ワンまで外せそうにないので、左ワンを外して開いた穴から写真を撮ってみて、右ワン内側の様子を伺う【写真15】。予想通りの感じ。ベアリングの球と球の隙間、なんやねん。間隔もランダムやし。
【写真15】
The錆って感じの色合い。
終わってるなァ




3.左ワンを再装着
素人目にも最悪の状況下で走っていた、と確認できたところで、そろそろ左ワンを戻そうと思う。左ワンとベアリングをパーツクリーナーで綺麗にして、たっぷりグリスを差した左ワンの球受け部分にベアリングを敷き詰める。一個余る【写真16】。うっわぁ。左ワン外してクランクシャフトがグラグラになったとき、右ワンのベアリングが左側まで落ちてきたんかな、などと推察する。元からBBシェルの中で遊んでた、とかは勘弁して欲しい。
【写真16】
一個余るの図。
この一球を適当に右に詰めるのも恐ろしいし、ひとまずズボンのポケットに入れて左ワンを戻す。そういえば専用工具も結局見つかってないのでやはり手でクルクル回して戻す。これ、ベアリングとクランクシャフトの球当たりを決定してしまう重要な場面で、ネットでの下調べの際、「良い」とされる球当たりには絶妙のヌルヌル感 がある、みたいな記述を見た。当然そんなもん素人には分からんので、ちょいちょいクランクシャフトを回転させながら、こんなもん?こんなもん?って感じのところで止める。再びロックリングを嵌めて、ペダルクランクをコッターピンで固定して終わり【写真17】。
【写真17】
「ヌルヌル感」とやらを
語感だけを頼りに締める
左ワンを外しにかかる直前の写真【写真8】と、分解後再度装着した後の写真【写真17】を見比べると、以前より左ワンを深くねじ込んでいることが分かる。気付いたの今やけど。大丈夫か

やる前から予想してた通り、予想外のことがたくさんあった。結局左ワンは何使って着脱するねん、とか、ベアリング一個余った、とか、随分と左ワン埋まってるけど大丈夫か、とか。最初やしまあこんなもんやと思う。次は右ワンも外して、BBとBBシェル部分を徹底的に綺麗にしたいです。

と、そんな気分で、特別はしゃぐ感じもなく自転車に跨った瞬間、修理前までとの違いに驚いた。以前はペダルからタイヤに力が伝わるまで、ひと漕ぎ毎にカクッ、カクッという、謎の休符を挟んでいた。とっくに慣れてたけど。そしてペダルクランク自体にもすごい遊びがあって、目に見える部分のネジは全部締まってるのに、手で触って見るとグラグラしてた。それらが綺麗になくなって、ひと漕ぎひと漕ぎの「力、伝わってます。」感がすごい。

もちろん右ワンの方は糞味噌のままなので、早く分解して綺麗にしないと。ベアリングも足らんし。たぶん今の状態って、左側のベアリングだけでクランク部分全部支えてるってことやもんね?

でもやっぱり漕いでて気分が良い。かおるさんとかおるさんの友達とで木屋町の路地にある大豊というラーメン屋まで行った【写真18】。全く脈絡はないが、油まみれになった後のビール餃子ラーメン、最高に美味いと思う。自転車だけでなくラーメン界も素人やけど、スープもチャーシューも美味しすぎてご飯全然足りないくらいだったというのは確か。
【写真18】
今まで入った事のない路地にあった。
ほんまに美味しかった


2012年4月14日土曜日

自転車直そうぜ

大好きなママチャリをなんとかしたい。8年前に買って以来、殆ど何も手入れをしてない。どこ行く時もこれに乗ってるし、もともと赤やったのを黒に塗り替えたりして今日までやってきたから、他に乗り換える気には全然ならない。中古で買って毎日乗りまくってる割によく走ってくれてるわ~とか思ってたけど、ちゃんと見たらあちこちガタガタになっていた。で、「ママチャリ 改造」とかで検索してみると密かに一大ジャンルを形成してて、参考になるページもたくさんあるし自分もやってみたくなった。



ブレーキがうるさい


後輪のブレーキがうるさい。うるさ過ぎて全く使ってない。この、ママチャリとかの後輪によく付いてる「バンドブレーキ」というやつ、使ってくうちに「ギキィ」ってうるさい音が出るのは構造上の宿命らしい。ちょっと調べたところ「サーボブレーキ」ってやつか「メタルリンクブレーキ」ってやつに交換することで音は止むとか。どちらもバンドブレーキを装着してるハブなら互換性がある。どっちがええんやろ?


サーボブレーキはパッと見だとバンドブレーキと同じ見た目。一方、上の写真のメタルリンクブレーキは鉄のプレートをブレーキボスに巻き付けて制動する仕組みらしく、ごっつい放熱板が付いてるのだ。メタルリンクの圧勝。DIA-COMPEというメーカーが2100円で売っている。欲しい。






カゴがとれそう


前カゴにエレキ乗せて走るから網目が裂けてきた。そろそろベロンといきそう。これは良いカゴがあれば買って付けたらいいだけ。ダイナモのライトを落として失くしたので、ストレートのカゴ足も見つかったらいいなと思う。



ひどい音が鳴る


ペダルを踏む足に力を入れてから、チェーンリングに力が伝わるまでに、常に少しタイムラグがあって気持ち悪い。いや、とっくに慣れてしまって何とも思ってないけど、この際だからやってしまいたい。カタカタ言うし、稀に玉が割れるような大きな音が鳴る時もある。多分ほんまにベアリングを砕いて走っている。 とりあえずこの中がどうなってんのか気になって、この前のバイト中に分解を試みたけど、早速クランクが外れない。おれのチャリのクランク、見たことない形してるねんな~、とか今更思いながら諦めた。

ネットで調べると、この手のクランクは「コッタードクランク」と言って、シャフト軸とペダルクランクの固定に「コッターピン」というクサビ形のピンを用いたもので、とうの昔に使われなくなった形だと。写真だと六角ナットの部分に先端がのぞいているコッターピンを、逆サイドからクサビみたいに打ち込んで、六角ナットを締めて固定している模様。往々にして酷く固着しているらしく、万力と大径ナットを使った裏ワザを駆使してコッターピンを抜くんだそうな。

クランクが外れたとして、その先どうしたらええんか。

ギザギザのリングは「ロックリング」。きっとBB(ボトムブラケット)部分を固定する蓋みたいな感じの役割なんやと思う。「フックレンチ」っていうフック船長の右手みたいな工具で外せるらしい。見たことあるわ。
ロックリングの内周にある、穴が2つ開いてるリングが恐らく「ワン」あるいは「カップ」。写真は左側なので正確には左ワン(あるいは左カップ)。これは「カニ目レンチ(ピンスパナ)」っていうカニみたいな工具で外せるらしい。見たことない。

パークツールっていうメーカーのサイト にすごく解りやすい図解があった。なるほどなるほど。

アジャスタブルタイプボトムブラケットの構造
ベアリングの調整が可能であり、メンテナンス性にも優れているボトムブラケットのタイプです。構造上部品が独立しており、それぞれの部品のみでの交換が可能となります。
このボトムブラケットの多くは、次の5つの部品で構成されています。
フィックスドカップ(右ワン)
クランク軸
アジャスタブルカップ(左ワン)
ロックリング
ベアリング球
車体の右側(ドライブトレイン側)に装着されるフィックスドカップをフレームに固定した上で、車体の左側に装着されるアジャスタブルカップで、球当たりを調整し、ロックリングを締めつけてアジャスタブルカップを固定させる仕組みとなります。

このBB部分を外せたとして、再び装着する際はロックリングと左カップの締め具合がそのままベアリングの玉当たりの微妙な調整を兼ねているから、素人はやめといた方がいいみたい。でもやってみたいな。

他にも前後輪のフレ取りしたり、ブレーキレバーを金属製に換えたり、前ブレーキをデュアルピボットてやつに換えたりしたい。



P.S.

火曜日の夜バンドを辞めた松ちゃんが木曜の夜バンドに戻ってきた。ちっとも驚かないぜ。そうこなくっちゃだわ。

2012年4月12日木曜日

さようなら

ベースを弾いてる松ちゃんがバンド辞めてしまった。ゆうべその話を聞いたところ。

元々あっちこっちにブレまくってくれる危なっかしい素敵な友達やったし、それで一緒に組んだとこあったから、あまり驚かなかった。前から自分100パーセントのバンドやりたいなって言うてたし。案外やれたもんやなってまず思った。自分ひとりでは絶対こんな風にバンドやるの無理やったし、そもそも歌ってないし、4月1日も無かったと思う。

下宿の隣人(ずぶの素人)を引き連れてベース弾きながらロールオーバーベートーベン歌ってた松ちゃんに「かっこええなぁ」て声を掛けたのが2年前の6月。ちょくちょく遊ぶようになって、去年の3月、たしか地震のちょっと後に「何かやらん?」と言い出して、昨日までの色々が始まった。ひょろっと背が高くて人当たりが良い割りに、話をしてみるといっつも何かにいらいらしてたり、いきなり突拍子もないことを思いついてそれを信じきったり次に会うとけろっと忘れてたりするところとか、古本のどっかのページで出会ったことのある様な気のする人だった。最初の頃、おれ声あかんわ~とか言うてもじもじしながら松ちゃんがケツ叩いてくれるの待ってたり、二の足踏んでなかなかデモテープ持って行かんからって松ちゃんが勝手に持ってったり、せっかく4人で出来上がりかけた曲を次の週には「やっぱちょっとちゃうねん」って混ぜっ返されたり。そんなあれやこれやは、言い換えるならば風が吹くってことだった。喫茶店でバンドの考え方とかライブのあり方とかを話すたび、おれら水と油やな~とか言いながら、分かって組んでた。演奏力とか歌唱力とかコネとか服装とかそんなんじゃなくて、やっぱバンドにはああいう人がいなくちゃならぬ。

急やし、日程決まってるなら暫くの間手伝おかって言うてくれたけど、4月1日あの場所での演奏が4人揃った最後ってのは上出来のお話だとも思う。実際嘘みたいな夜やったし。思えば初めて松ちゃんに出会ったのもその場所だった。ゆうべ4月1日の話になって、緊張とか興奮でわーッとやっちゃう演奏じゃなく、そういう要素に揺さぶられながらそれを捩じ伏せて成立させてやるって感じの演奏で、めちゃ良かったって言ってた。録音を聴いて自分もそう思った。演奏直後に思ってたよりも自分らは謙虚で誠実やった。

鍵盤の小森ちゃんも学校忙しくなっきてそろそろアカンって言ってたリミットが4月1日やし、どう考えてもこの編成は一旦終わる。けどあんま悲観的にならない。歌が真ん中にあるから、それをやる人とか楽器構成は本当はあんまり重要じゃない。でも少なくとも今はたったひとつの冴えたやり方がバンドだったと思えた。バンドやったところでモテそうな人は一人もおらんかったけど、ほんま面構えが良いバンドやったと思う。

最後の最後に、昨日まで「その事」には全く気付いてなかった自分にハートウォーミングな打ち明け話をしてくれたりして、別れ際に日本橋のレコ屋巡り行く約束してさよならした。なんか数日中にも「やっぱさあ、」とか言うてきそうな気もするけど。



2012年4月10日火曜日

サウスサイドを歩く

バイトもなく何の予定もなくなった土曜日、大阪に遊びに行った。実家にも滅多に帰らんから大阪の町めっちゃ久しぶり。

新世界へ。
阪急淡路乗り継ぎで590円1時間弱、堺筋線の恵美須町で降りて、通天閣の真下をうろうろしながら、腹ぺこの我々は節約のことなど忘れて串カツ屋に入ってしまう。串を待ってる間のキャベツとビール最高にうまい。串カツも土手焼き丼もビールもうまい。外の席で食べてると、ビニールカーテンで仕切られた通りの向こうに朝日劇場が見える。出演者ののぼりとか看板の色遣いとか売り文句とか、ああ知らない町にやって来たんやな~という気分になる。ポルノ映画館の新世界日活て、千本日活の系列かな。

天王寺動物園へ。
再び歩き始めると天王寺動物園の入り口が見えたので、入場料なんぼか見てみよか、と近寄ると500円だった。檻に入れられた沢山の動物たちを人間様が勝手に可愛いとかキモイとか言いながら眺めて回る仕組みになっているので、それについて一向に考えのまとまらない自分は妙な気分になりそうやから普段あまり近付かぬように暮らしてたけど、そんなんじゃダメだよ、動物園を観察してやればいいんだよ、とか思いながら動物園を歩き回る。そしてやはり「キウイかわいい~」などと思う。目的する意思(それは手段の母)の獲得と、言語や道具の発明により、自然状態を改変し支配できると気付いてしまって、純粋な本能を失くしてしまった人間。本能を失ってこその人間。檻に入った動物を眺めて回ることも、動物の皮を着飾ることも、動物を狩ることも、どこまでが「必要な」必要なのか、もう誰にもわからない。そしてやはり「ペンギンかわいい~」などと思うことも。

動物園を出て再び新世界をコーヒー飲みたいコーヒ-飲みたいと思いながら歩いていると、最も好みのタイプの喫茶店があったので入る。 喫茶☆スター。「演劇グラフ」という雑誌が置いてあったので読む。巻頭特集の役者さんがインタビューで語ってた自身の半生が大概破天荒でめちゃくちゃ面白かった。

日本橋電気街へ。
恵美須町まで戻って、堺筋を北に上り日本橋電気街を目指す。目指すといっても恵美須町の駅から見えてる阪神高速をくぐるともう右手にでっかいジョーシンがあって、そのあたりを南端に、北は日本橋三丁目の交差点くらいまでの範囲に日本橋の電気街はある。電器屋よりヲタショップより、なんつってもレコード屋がたくさんあるのだ。もう夕方になってたので、一筆書きで回れる範囲のレコ屋をいくつか、かけ足で見て回る。

ミントレコード2号店へ行く。
新しいレコ屋出来てるやん!と思ったけど、堺筋沿いに移転したお店らしい。とりあえず「日本の○○」コーナーだけ見る。時間が無いときは日本語歌唱レコード最優先で間違いない。 自分は何も見つけられへんかったけど、一緒に行ったかおるさんが人生初のアナログ盤に小川美潮という人のレコードを800円で買ってた。購入後に「『つぐみ』の主題歌入ってたらええねんけどなぁ」と言うので、「レジで検盤させてもらえるから、そこで歌詞カードとかチェックできるねんで」と告げると、「はよ言うてよ!」とのこと。無事「おかしな午後」は収録されていた。よかったねえ。

エイトビーターへ行く。
ここでもまず「日本の○○」を見る。「シバ/青い空の日」のURCオリジナル、歌詞カード欠品が1800円。オレカン(オレンジカウンティブラザーズ)のセカンド?帯付き歌詞カード付きが1800円。迷いまくってシバを買う。いつかまた行く日までオレカン残ってますように。

ファンハウスへ行く。
近年楽器が増えてたけど、さらに楽器が増えてて、なんかでかい音で試奏してる人までおって、もはや楽器屋にも見える。全部は見られんかったけど、やっぱり一番好きな感じの品揃えのお店。あ、ファンハウス向かいの喫茶店バロックがなくなってた。日本橋ウォーカーの際は必ず一服してた大好きなお店。しょぼくれる。

蒼月書房へ向かう道すがらルービックレコードへ行く。
ナカとか大十とかサウンドパックとかディスクJJとか、所謂日本橋っぽい「町のレコード屋」然としたお店とは異なる視点の品揃えな感がある。でもだいぶ前、ブッカーTと嫁はんのプリシラとで作ったレコードを安く買ったことがあるので素通り出来ないのだ。チラっとだけ見て出ようとしたら、新入荷コーナーの横に「新品LP500円均一」というすごい箱を見つける。「うそー、うそー」と言いながらホリーズの知らんやつとかアオクソモクソアとか2000円分買ってしまう。どういう仕組みなんやろ?カット盤とも違うっぽいし。

蒼月書房に行く。
そろそろお金使いすぎかなぁと思い始めたので、薄目で本の背を眺める。棚の下にレコードも置いてあって、何気なく見ていると謎の自主盤が500円で売られている。「ROMANTIC THEATER あのうぼく…/田舎娘印粉石鹸 強奪事件」という。バンド名(劇団名?)と作品タイトルがこの組み合せで合っているのかさえよくわからない。新世界で遊んだ帰りに、思いっきり通天閣ジャケ写の自主盤に出会って喜ぶ。そして買う。ポリドールから出ているけど、たぶん噂に聞くところの委託制作盤ってやつなんかな。まだ聴いてない。

堺筋沿いの中古ビデオ屋、日本橋道楽に行く。
初めて見つけたときはでかい店内に100円そこらの中古VHSが棚一杯、天井まで並んでいて、もうなんか怖かった。最近は中古VHSは奥に追いやられて、それなりの値段の中古DVDが増えていた。サンセット通りの暴動のVHSと、RADIO ON、東京ロッカーズ、ジョイディヴィジョン映画のDVD、計4本で1200円。サンセット通りが700円やから、残りのDVD3本で500円。やっすい。まだ一本も観てない。

日も暮れたので日本橋ウォーカーはこれでお終い。
かおるさんが行きたがってた道具屋筋行ったり戎橋でたこ焼食べたりして京都へ帰ってきた。大阪たのしや。

2012年4月5日木曜日

祭のあと(パート3)

三連勤三日目。祭の終りの終り
朝一度目覚めるも、弁当用にこんがり焼けたポークピッツを2本つまみ食いしたとかしてないとかで人間関係が崩壊しかける。二度寝(不貞寝)により13時起床。

ふくふく膨らむコーヒー豆とおっちゃんの話し方が非常に好きで家から全然近くもないのに毎度毎度コーヒー豆を買っている中立売のミリオンコーヒーで豆を買う。この前の日曜日、演奏前の自分が酒飲まんために無料(カンパ)で出してたコーヒーもばっちり売り切れましたよ(カンパ箱開けたら4000円以上入ってたのだ)とおっちゃんに伝える。はるばる和歌山から来てくれた友達も美味しかったと言ってくれた。そのまま知人の引越しを手伝いに出町柳に行く。でか過ぎて階段も曲がれないCD棚を、面倒臭さからバラさずにマンション3階からビニールひもで吊るして下ろすというウルトラCを3回こなして殆どの作業を終わらせる。荷物を運び込んだ柳荘は、磨かれた木の廊下と白くて冷たい壁が素敵なアパート。ちょい早めに終わったからマクドナルドで月見バーガー買って御所で食べて、三条のビッグボスで弦買って、神泉苑御池のチロルで今日一杯目のコーヒー飲んで、バイト。春風にあたって気が晴れる。

「1984」、ゆうべ寝る前にようやく読み終わった。
布団入って半分白目で読んでたので折角の結末がよくわからない。早く解説を読みたい。
愛情省からの長期的暴力により、真実がひっくり返された後の「真実’」を次第に受け入れる主人公。でも、「受け入れる」意識のあるうちは、まだ彼の内に「真実」も同時に憶えている。それゆえ、党から「最も厄介な人間」とされた主人公は、遂に思考犯の誰もが恐れる「101号室」に連行され、彼が最も恐れる鼠を使った拷問に掛けられる。そこで彼の内に最後の最後まで残った「真実」であるところの恋人、ジュリアを自分の身代わりに拷問に掛けろと叫び、(たぶん)すべての「真実」が「真実’」に変換されたところで物語は途切れてエピローグへ。主人公はテレスクリーンを恐れる様子も無くカフェにてチェスを打つ、といった具合。合ってるのか?

印象的なのはやっぱり「二重思考」。「この世界が何で出来ているか」に直結してる気がする。かねがね思ってた「天動説≒地動説」説がそのまんま登場した。天動説も地動説も、例えば「天文学」という狭い場においての言説であり、空が回ろうが地球が回ろうが、アパートの屋上から星を眺める自分にとってまるで無関係だってことが別の言い方で同じように話されていた。いま問われて「地球が回ってる」と答えるのは、絶え間ない刷り込みあってのこと。一貫した刷り込みがあったから(そしてそれを疑う必要がなかったから)こそ、逡巡のない返答が可能なのだ。じゃあ同様のことがイデオロギーにも起こり得るなら?それは主人公が不断の暴力の末に体得した自発的服従だろう。主人公の場合、イデオロギーの転覆が一身の人生の内に起こってしまった為、自発的服従に至るまでにあれだけの暴力が必要となったのだ。自分の場合には自発的な服従すら必要ない。例えば今ある正しさを正しいと言うことがそのまま服従になってしまうのだから。ネガフィルムで世界を見るような楽しみが詰まった小説だった。

2012年4月4日水曜日

祭のあと(パート2)

三連勤二日目
ギターの弦換えたり普段聴かんようなレコード聴いたり読みかけの本読んだり、何か新しいものを入れて気分変えようと思ってたのに夕方まで寝てしまったで。ギターの弦を外した後で新品の弦持ってないことに気付いたが外は春の嵐、結局本を読む気も起こらずコーヒー豆も一杯分で切れてしまって猫のお腹さわってたらアルバイトの時間になった。まったく冴えへん。

モーリン・タッカーのレコードが欲しい。ちょっと試聴しただけやのにドキドキした。こういうの聴くとなにかやりたくなる。




2012年4月3日火曜日

祭のあと

終わったァ
まだ何も書く気にならへんけど、こればっかりは決めごとなので何か書かなきゃならん。

客席の配置変えて受付やって色んな人たちの演奏観て舞台の転換手伝って気まぐれにコーヒー出して自分が演奏して会場の片付けしてがらんどうの会場に残った人たちでご飯食べてお酒飲んで朝がきて家に辿り着いて寝て。まだまだ片足突っ込んでるような気分で、自分の演奏も祭自体も言葉にするほどの距離がなく、「○○そのもの」が仕分けられないまま残ってる気がする。祭よ鎮まれ。

2日間、あの場所でとても多くのことが起こっていたような気がするけど、そのどれもが別のどれかと必ずどこかで繋がっていて渦巻いていて、言葉を使ってひとつひとつの出来事に切り分ける気分にならない。混沌混乱を切り分けていくつかの「一」に収斂させること、もしかするとそれは結構疲れる作業なんかもしれないと思う。