2012年6月26日火曜日

レッツドロップデッド

今日も昼勤。暇が立て込んで気分がイイ。

最近?というかこの半年ぐらい、生権力という言葉がふと浮かぶ。いきなり涌いて出たわけじゃなくて、その言葉を耳にしたからなんやけど。その言葉はスポーツと現代社会っていう15回講義の最後の方でほんのチラっと触れられただけで、試験にも出題されなかったと思う。

その回の講義では、60年代と近年のふたつの時代のオリンピック入場行進の写真が提示された。60年代は各国の選手全員が服装や足並み揃えて箱詰めおはぎ状態で入場しているのに対し、近年では服装こそ統一されているものの、選手は客席の写真を撮影したりテレビカメラに手を振ったり、思い思いの身振りで入場してるでしょ、というもの。その対比から、入場行進における選手の身体は自由になったかのように見えるけど、その実、選手たちが自らの意志によって自らを律することで、誰かにとって都合の良い秩序や統制はしっかりと保たれてる、という風に導かれたように記憶している。同時にスノーボードの国母選手への強烈なバッシング事例も取り上げて、スポーツ選手がまとう自由なイメージは、人々が彼らに認める範囲の中での自由であって、それを越え出てしまった者に対しては容赦がない、という感じでくくられた。

自分は生権力というものを、(((規律とか法律など上からの強制ではなく、自ら内面化し自発的にそれに従い、衆人監視の中でそれを他者にも要求する性質のナニモノか)))、という風にぼやぁっと理解した。まったく掘り下げてないから相当雑な認識やろけど。

その時はヘェ、くらいに思ってたけど、常識とか世間とか自重とか、いろいろ思いあたる節がありすぎて半年経った今でも不意に思い出す。ほんまに自分の思ったことを言ってるのか、自分のやりたいことをやってるのか。小さい頃、先生や親に怒られへんように感想文書いたりしてたように思う。産まれたての混沌とした自由は、家庭とか学校で一定の傾向付けがなされるのだろう。それに、欲望は他者の欲望であるっていうことも何となく分かる。他者の欲望の帰結として自分が世界に放り込まれたことが既にそうで、例えばそこで言葉(的な身振り)を使わないなんて選択はありえないと思えるし、他者の言葉を内面化せざるを得ないってことは、欲望のあり方もあらかじめ他者に規定されてるってことじゃないんか。そして仮に、その欲望が自分以外のなにものかにとっても都合の良いものだったとしたら…?お金とか労働とか生殖とか。人生費やしてでも所与の欲望を拒否して自分自身の欲望を見出せたらいいでしょう。人生は大げさなものじゃないけど。

はたしてビタミンは効くのか

暇がつづくわ。

今日持ってきてる弁当のおかずにニンニクの芽の炒め物が入ってて、ニンニクの芽ってどんなんやと思いちょっと調べたら、ニンニクよりも臭くなくニンニクより栄養価が高いんですってよ。ド定番のおかず食材だったので嬉しい。

この感情って不思議やと思う。さっき見てたサイトにも「ビタミンAがCが~」とか書いてあったけど、自分にとってビタミン(とかその効能)っていうのは誰かの書いた文章の中に文字としてしか存在してない。それでも「ビタミンは良いものだ」みたいな思い込みがあって、こうして喜んでいる。

その思い込みは昔読んだ家庭科の教科書だったり、「思いっきりテレビ」観て夕飯を作った母親だったり、さっき見たサイトだったり、色んな所から刷り込まれたんやと思う。いま思いついた全部に共通するのが、教科書、テレビ番組、ウェブサイトという媒介物から「情報」として得られたものってことと、ウェブサイトを除いたそれらは極少数の者(出版社、テレビ局etc)たちの手によって大量生産され流布されたものであるということ。たった今これをプロパガンダだと思えば、世界が反転するような感覚を味わえた。たかがビタミンの話やから別にいいんやろうけど、実際もっと深刻なことだって媒介物から得られた情報だけを頼りに行動してると思うし、それへの信頼(というか身投げに近い投げやりな感じ)なしには暮らしていけないような気もする。みんなどうやって折り合い付けてるんやろ。

2012年6月24日日曜日

神戸へ行ってきた(純日記)

こうやってブログやめていくんやろか。
昼勤増やしたから夕方から遊べて良い分、アホ程暇な夜勤が減ってしまって、なにか物申してやりたい気持とタイミングがずれる。

ただの日記をば
昨日は友達の演奏を観に数年ぶりに三宮へ行ってきた。梅雨の晴れ間って感じだったので洗濯や片付けやってたらアパート出るのが15時過ぎてしまった。阪急で1時間ちょい600円。下手にミナミ行くよか近いし安い。たしか堺筋線乗り継いで日本橋行ったときも1時間掛かったし600円は超えてたと思う。

まずは、というかもう16時半だったのでモトコーだけ見て回ると決めて6番街あたりから元町駅の方へあるく。全然変わってないような、ちょいちょい変わってるような。好きな感じは相変わらず!あ、5番街と4番街の間のでっかい柱いっぱいにベタベタ貼られてたパンクとかハードコアの怖いビラが全部なくなってる。

4番街?らへんを歩いてるときに新しいレコード屋さんを見つけた。日本のR&R/ロカビリーってコーナーがエサ箱1箱分以上あってワクワクした。パッと見のジャケが最高やった「Thanks to Ediie/湯江健幸」500円、むかしBURSTて雑誌の「電撃ビリビリロック秘宝館」のコーナーで紹介されてた坂上忍のセカンド1000円を買う。忍兄ぃの方は1000円やし、大ハズレが少し怖い。けど両方ともジャケがめっちゃよい。

モトコーいえば
 「積み上げたレコードを柱にして高架支えてるんちゃうか」って友達と冗談言い合ってしまうくらいのエラい店があったはず。あった。だいぶ元町寄りの多分2番街らへん。こういう話にありがちな、案外そうでもない、というようなことは全くなかった。全棚カチカチにレコードが詰まってて、エサ箱の上に軽く50枚は平積みされてた。普段通りのレコードの探し方やと、ジャケットの上部3㎝程度の色合いのみをヒントに判断することになる。ん、コレなんやろ、って汗かきながら引っこ抜く度に心が折れる(ペドロ&カプリシャス憎し)。全体の値付けはほんまに安かった。でもPYGには4000円とかついてた!時間ないしオシッコしたいし、最適な探し方を見出せないままに店を出た。また行きたい。

で、ライブを
神戸108というライブハウス。初めて来た。第一印象はとっぽいぜ!て感じがした。よく行く京都のライブハウス、拾得とか磔磔、ウーララ、ネガポジって全部テーブルがあって、お客さんは座って飲み食い(ガチ飯)しながら観るってのが普通やから、すごい斬新に感じた。ライブハウスっていったら立ち見の方が普通なんやろうけど。
1つ目のバンドがジャジャーンって音鳴らすと同時にとっぽい(本気でそう見えた)お客さんたちがフロアの前方に寄って行って、あぁ、何かカッコいいと思った。

友達のバンドは2つ目に出てた
やっぱり良い。というか5年くらい前に一緒にバンドやってて、別々になって、それからやりたいことを尖らせ続けて昨日の夜に繋がってるんやから、いいに決まってるねんけど。歌が真ん中にあるロックンロール音楽はほんま好き。自分も別のやり方でそういうのがやりたい。この夏にファーストアルバムが出る。やりおった!
他のバンドも観た感じ、会場の音の特性が変わってるのか、自覚的にPAでそういう音に仕上げてるのか、声とか楽器それぞれの音よりも、迫力とか全体のうねりみたいなんがボワーと来るような音だった。これも京都(上に挙げたとこ)やとあまりない感じ。別の良さが確かにあった。そんな中で友達のバンドはエレキギター2人の5人編成やのにしっかり歌を聴かせてた。かっこよいなぁ。やるなぁ。

で、目当てのバンドがもうひとつあって
最後からひとつ前に出てた。高校生のころ大いに憧れていた堺のバンド。何年ぶりかになるけど、やっぱりほんまに良かった。キレッキレや。初めて知った時から、「お!ば!け!が!で!た!ぞ!」って決めたり、全く歌わんと曲終りまでやったり、上空に唾吐いたり、「ガレージ」とか言って括られた中では演奏もアクションも段違いにカッコよかった。で、それから何年も経って、もう全然分からない場所に居る。やれ、めんたいだ、ガレージだ、初期パンだ、元ネタが何だ、とか、そういうヒントを与えない、かつ、前よりかっこいい。たぶんこれはすごいことや。ティーシャツ買った。そして今着てる。嬉しい。


2012年6月3日日曜日

ロックは死にまへぇぇん!(苦笑)

今日の昼勤ヒマや。よかった。 さっき思ったことを書きたい。どうやって書くのか。書けるか

ルーズなロックンロールが好きで、ある種のレコードを聴いてると、ちゃんと「あ、これこれ。これだよ~」って思う。でも音楽を表した言葉って面白い。「ルーズなロックンロール」において、一体なにがそれを「ルーズ」たらしめたのか、「ロックンロール」たらしめたのかは、実はよく分からんままじゃないのか。いや、聴いたら「分かる」んやけど、言葉で表せない(≒分からない?)ってことか。「音そのもの(再生されたレコード)」から「ルーズなロックンロール」って言葉を導いたくせに、「ルーズなロックンロール」という言葉から、その何たるかを説明することの困難よ!

いま思いついたキッカケが「ルーズなロックンロール」というフレーズだったので変な例えになってるけど、たぶん「ロック」とかもそう、言葉全般がそう。

言葉を使ってものごとを言い表す時、その人は用いる言葉の意味を既に「知って」いないといけない。「辞書的定義を説明できる」といった「知識」としてではなく。なぜならその人が紡いだその言葉は、その人の生きてきた時間の中で、ずーっと再生産、内面化されてきたもので、辞書なんか引かなくてもとっくに「知って」いるから。

例えば「ロック」って言葉なら(なんかダッサ~)、その人にとって信頼に足る他者による「ロック」という言葉の使い方や、その人が観たテレビ番組、読んだファッション誌、友達がやってるバンド、好きなレコード、etcetc…あらゆるものから、その人の「ロック」は形作られる。
だから、目に見た・耳に聞いたものごと・対象物を、類型的に「ロック」である、と導くことは容易でも、「ロック」それ自体を言葉で説明することが困難になってしまうんじゃなかろーか。言葉のふるさとはあちこちに散らばっている。辞書には何も載っていない。

同時に、その人自身がその言葉「ロック」を用いてものごとを言い表すことで、再び「ロック」はその意味を生産し、その人にとっての「ロック」は更新される。
で、面白いのは、ある人が「ロック」って言葉を使うということは、「ロック」そのものを更新・改変し得るということじゃないか。なぜならその人もまた、誰かにとっての「信頼に足る他者」であり得るから。
「ロック」の使い方、例えば「がいこつ」マークに「ROCK」をあてがう。個人的にはこういうのが一番つまらんタイプの運用で、何の意味も生み出さない。でも、これも最初の頃は偉大なる更新・改変だったんじゃないかなと思う。音としての「ロック」は、「がいこつ」と全然関係ない。例えが下手で悲しい。
もうひとつ。どう聴いたってくだらないバラードまでもが往々にして「ロック」に含まれてしまう理由。そういう場合の「ロック」は多分に属人的である。それを歌う歌手の出自、言動、過去の作品、バンド編成か否か、といった記号が、ロックと親和性の高いものであった場合、くだらないバラードは「ロック」に吸収されちゃうんじゃなかろうか。「ロック」の越権。そしてこの越権行為はあらゆる言葉が普段から行っている。

きっとそんな風に、更新・改変、ときに領土の侵略を繰り返しながら意味を再生産することで「ロック」は今日まで寿命を延ばしてきたんやと思う。それゆえ、更新の度にあちこちでその正当性・真正性が争われるのだ。「あんなんロックちゃう」という風に。誰かが「ロックは死んだ」とか言ってるとき、「ロック」は別の方法で生きのばしている。本当に死ぬものは、それについて語る人も居なくなって、ひっそり死んでいく。