今日も昼勤。暇が立て込んで気分がイイ。
最近?というかこの半年ぐらい、生権力という言葉がふと浮かぶ。いきなり涌いて出たわけじゃなくて、その言葉を耳にしたからなんやけど。その言葉はスポーツと現代社会っていう15回講義の最後の方でほんのチラっと触れられただけで、試験にも出題されなかったと思う。
その回の講義では、60年代と近年のふたつの時代のオリンピック入場行進の写真が提示された。60年代は各国の選手全員が服装や足並み揃えて箱詰めおはぎ状態で入場しているのに対し、近年では服装こそ統一されているものの、選手は客席の写真を撮影したりテレビカメラに手を振ったり、思い思いの身振りで入場してるでしょ、というもの。その対比から、入場行進における選手の身体は自由になったかのように見えるけど、その実、選手たちが自らの意志によって自らを律することで、誰かにとって都合の良い秩序や統制はしっかりと保たれてる、という風に導かれたように記憶している。同時にスノーボードの国母選手への強烈なバッシング事例も取り上げて、スポーツ選手がまとう自由なイメージは、人々が彼らに認める範囲の中での自由であって、それを越え出てしまった者に対しては容赦がない、という感じでくくられた。
自分は生権力というものを、(((規律とか法律など上からの強制ではなく、自ら内面化し自発的にそれに従い、衆人監視の中でそれを他者にも要求する性質のナニモノか)))、という風にぼやぁっと理解した。まったく掘り下げてないから相当雑な認識やろけど。
その時はヘェ、くらいに思ってたけど、常識とか世間とか自重とか、いろいろ思いあたる節がありすぎて半年経った今でも不意に思い出す。ほんまに自分の思ったことを言ってるのか、自分のやりたいことをやってるのか。小さい頃、先生や親に怒られへんように感想文書いたりしてたように思う。産まれたての混沌とした自由は、家庭とか学校で一定の傾向付けがなされるのだろう。それに、欲望は他者の欲望であるっていうことも何となく分かる。他者の欲望の帰結として自分が世界に放り込まれたことが既にそうで、例えばそこで言葉(的な身振り)を使わないなんて選択はありえないと思えるし、他者の言葉を内面化せざるを得ないってことは、欲望のあり方もあらかじめ他者に規定されてるってことじゃないんか。そして仮に、その欲望が自分以外のなにものかにとっても都合の良いものだったとしたら…?お金とか労働とか生殖とか。人生費やしてでも所与の欲望を拒否して自分自身の欲望を見出せたらいいでしょう。人生は大げさなものじゃないけど。
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