2012年6月3日日曜日

ロックは死にまへぇぇん!(苦笑)

今日の昼勤ヒマや。よかった。 さっき思ったことを書きたい。どうやって書くのか。書けるか

ルーズなロックンロールが好きで、ある種のレコードを聴いてると、ちゃんと「あ、これこれ。これだよ~」って思う。でも音楽を表した言葉って面白い。「ルーズなロックンロール」において、一体なにがそれを「ルーズ」たらしめたのか、「ロックンロール」たらしめたのかは、実はよく分からんままじゃないのか。いや、聴いたら「分かる」んやけど、言葉で表せない(≒分からない?)ってことか。「音そのもの(再生されたレコード)」から「ルーズなロックンロール」って言葉を導いたくせに、「ルーズなロックンロール」という言葉から、その何たるかを説明することの困難よ!

いま思いついたキッカケが「ルーズなロックンロール」というフレーズだったので変な例えになってるけど、たぶん「ロック」とかもそう、言葉全般がそう。

言葉を使ってものごとを言い表す時、その人は用いる言葉の意味を既に「知って」いないといけない。「辞書的定義を説明できる」といった「知識」としてではなく。なぜならその人が紡いだその言葉は、その人の生きてきた時間の中で、ずーっと再生産、内面化されてきたもので、辞書なんか引かなくてもとっくに「知って」いるから。

例えば「ロック」って言葉なら(なんかダッサ~)、その人にとって信頼に足る他者による「ロック」という言葉の使い方や、その人が観たテレビ番組、読んだファッション誌、友達がやってるバンド、好きなレコード、etcetc…あらゆるものから、その人の「ロック」は形作られる。
だから、目に見た・耳に聞いたものごと・対象物を、類型的に「ロック」である、と導くことは容易でも、「ロック」それ自体を言葉で説明することが困難になってしまうんじゃなかろーか。言葉のふるさとはあちこちに散らばっている。辞書には何も載っていない。

同時に、その人自身がその言葉「ロック」を用いてものごとを言い表すことで、再び「ロック」はその意味を生産し、その人にとっての「ロック」は更新される。
で、面白いのは、ある人が「ロック」って言葉を使うということは、「ロック」そのものを更新・改変し得るということじゃないか。なぜならその人もまた、誰かにとっての「信頼に足る他者」であり得るから。
「ロック」の使い方、例えば「がいこつ」マークに「ROCK」をあてがう。個人的にはこういうのが一番つまらんタイプの運用で、何の意味も生み出さない。でも、これも最初の頃は偉大なる更新・改変だったんじゃないかなと思う。音としての「ロック」は、「がいこつ」と全然関係ない。例えが下手で悲しい。
もうひとつ。どう聴いたってくだらないバラードまでもが往々にして「ロック」に含まれてしまう理由。そういう場合の「ロック」は多分に属人的である。それを歌う歌手の出自、言動、過去の作品、バンド編成か否か、といった記号が、ロックと親和性の高いものであった場合、くだらないバラードは「ロック」に吸収されちゃうんじゃなかろうか。「ロック」の越権。そしてこの越権行為はあらゆる言葉が普段から行っている。

きっとそんな風に、更新・改変、ときに領土の侵略を繰り返しながら意味を再生産することで「ロック」は今日まで寿命を延ばしてきたんやと思う。それゆえ、更新の度にあちこちでその正当性・真正性が争われるのだ。「あんなんロックちゃう」という風に。誰かが「ロックは死んだ」とか言ってるとき、「ロック」は別の方法で生きのばしている。本当に死ぬものは、それについて語る人も居なくなって、ひっそり死んでいく。

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