2012年2月2日木曜日

魔法を信じるかい

そう、「ん?」を黙らせる論理、つづき

卑近な一例、ペット禁止を正当化する論理を補強するものとして、「アレルギー」っていう診断名が大した精査も経ず濫用されてないすか?って疑問があった。

平たくすると、偉い人権力者支配者が何かを起こす時、異論反論反抗抵抗者どもを黙らせる手段として客観的科学的根拠のストックから「これピッタリや~」ってやつを持ち出してるんちゃうん?て。

対立関係をコミュニケーションと捉え直すと、送り手側(賃貸業界)の禁止の論拠に対して、受け手側(客、住人)がそれを「信じるに足る」と思ったとき、それは成立して合意に至る。ペットの例だと、「うーむ、しゃあない」などと半ば自発的に飼うことを諦めたら、成立。

あ、これ「黙らせる論理」とか、支配被支配の関係じゃなくて、単純に人々の「納得」はどこから導かれるかってことなんかな。(で、偉い人権力者支配者はその「納得させる論理」に長けてる、とか?牧歌的!)我々、何をもって「世界」と了解してるんでしょうかね。

結局長年のテーマ、世界は何で出来ているか、に戻ってきてしまった。(ていうか「テーマ」とか言って心に明文化してしまったことで、色んな事物がこれに引き寄せられてもうてる気がする。)
疑いのない「確からしさ」ってどこから来るんやろ。

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