自分の中で大きな存在だった人、かつ毎週顔を合わせるような近しい関係だった人が亡くなった。年の暮れに悪い病気が見つかって、年始にはあまり時間が残っていないことが分かっていたのに、身近な誰かが死ぬことについて全然考えないままそのときが来た。
一度だけ1月中旬にお見舞いに行くことができた。その日まで自分は病気のことを知らず、その場で、本人の口から本人の言葉で本人の死について聞くこととなった。おじさんは病気が見つかる前の年末最後に会った時と同じ口ぶりで音楽のことや考えてること、自分が死んでしまうことを話した。
その日から昨日まで、自分はそれらをどう了解してたんやろうか。昨日の夜に電話をもらうまでの、たった一日前までの心の持ちようを思い出せない。ただ、昨日まではなかった明確な「いない」感じが、おじさんを想起する度ぴたっとついて来るようになった。亡くなったということ、通夜と葬儀の日時を知らせるだけの短い電話一本やったのに、その不在は強い確からしさを持つ実感になった。「ふと姿を見せそう」な感じとかは全くない。これがどういう感情なのかまだよくわからない。身近な誰かを亡くした経験がなくて、死別の際使われる「悲しい」はこういう感じのことなんか、とも思う。 喪の準備期間さえ与えられていたのに、なぜか突然に死が訪れたと感じられる。
何度も思い出すのは、お見舞いの最後におじさんがたこ焼きを食べたいと言って、自分がお遣いに行きますよ、という話の運びになり、「じゃあまた、たこ焼き持ってきますね」といって会釈したのが最後となってしまったこと。本当ならその日のうちにもう一度病室に行くはずだったが、家族の方が差し入れに行くこととなり、結果的にそんな挨拶が最後のお別れになってしまった。あの時の、ほんまに軽い感じの、何時間後かに再会することを互いに分かってるって感じの別れの挨拶が強烈に思い出される。
人が死んでしまうことはよく分からない。明日のお通夜のために革靴とネクタイを買いに行った。今日しかないと思って、ずっと欲しかったけど買えんかった「喪の日記」を買って帰った。
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