2012年2月28日火曜日

彗星の尻尾

曲ができない。中3の頃からずっとこんな調子なのであまり気にしてなかった。でもやっぱり他の人の曲作りなんかを目にすると、自分は病的だ、代謝不全だと思う。こんなもんに健全も病気もないやろうけど、現に今のバンドで定期的に演奏を行うようになって以来、新曲ほし~い!と強く思ってて、ついに焦っている。


自分にとって曲とは、日本語の詞の付いた歌である、というぐらいの思いしかない。ここでロックとか言うとややこしくなる。ほんまにそれだけ。自分のわかる言葉で歌える歌が作りたいだけ。自分が知ってるたくさんの名曲、例えばコード進行に分解してみると実にシンプルなコード循環が支えているし、そこで歌われる歌詞も「そのとーり!」と頷けるような平易な言葉で書かれている。ギターを弾くようになってから聴く名曲は、誰にでも手が届きそうな材料と少しのアイデアで作られているように思えたし、今でもポップの本質はその辺に転がっているんじゃないかと思う。


じゃあなんで出来ないんやろ?いま歌ってる数少ない自作曲がどうやって出来たのかも全然思い出せない。まるで元々その形で存在したものを偶然自分が発見したみたいな感じがして不思議な気分になる。ただ、閃きだとか、尻尾を掴む、みたいな感覚は夜遅くにギターを弾いてる時とか、何気なく自転車に乗っている時、しょっちゅう訪れる。明日は朝早いとか何とか言って、往々にして蔑ろにしてきたそんな瞬間は、何かを作る人にとってめちゃくちゃ重要な一瞬やったんやと思う。その一瞬の閃きが、日常生活のあれこれに熱を奪われてしまうまでのとても短い時間に、どこまで熱を持続させて形に出来るかってことじゃないか、と漠然と思う。夜中に書いた手紙(主にラブレター的なもの)を、白日下で改めて読み返し、恥ずかしさに悶絶するみたいな話があるけど、曲作りもそんな感じで、たいてい熱に浮かされて書いた詞だとかには翌朝自分で愕然とする。作ったものをポップとして成立させる為に他者の承認(あるいは自分に恥ずかしさをもたらす類の客観的な視点)は不可欠だとは思うけど、ほんの数時間前、ゆうべの夜中確かにあった一掴みの真実(らしいもの)は、きっと間違いそのものではない。なぜならそれはこれまでの自分の、ありとあらゆる蓄積から紡がれたものであり、その蓄積は自分以外の他者から受け取ってきたものだからで、自分の価値規範を否定したいのでもない限り、肯定されるものだと思う。いま自分にできる事は、引き続きの蓄積、閃きのありそうな状況に身を置くこと、恥ずかしい閃きを蔑ろにしないこと、って感じなんやろか。明日は拾得でライブ。閃きがありますよーに。

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