2012年3月23日金曜日

音楽が嫌いとだって言える

さて、何書こかしら。

ゆうべ友達のライブを観に行ったけど、友達のバンド以外の出演者がまるでいかさなくて、しかし会場に付き物の「聴く態度」というコードがなんとなく存在し、人と行ってたこともあって、だらしなく抜け出すことも出来ずにしんどい音楽体験となった。

音楽を好きでいる、とは

「音楽は国境を越える」的言説に象徴される、無邪気で牧歌的なものではないと思う。この手の言説で使用される「音楽」という言葉の運用のあいまいさ(あくまでそいつの思う「音楽」に過ぎない)、そしてそいつの言う「音楽」が、国境や地域文化、歴史といった共時的/通時的な諸制度を易々と越える普遍性を持ってる、とでも言いたげな驕りが見え透いてむかつく。べつに「国境を越える」って言葉だけをあげつらってるんじゃなく、往々にして無前提に「音楽」に込められる思い上がったイメージに違和感を覚える。

たいてい、思い上がりの「音楽」観に基づく物言いには、誰の目にも明らかな悪意は込められていない。だからこそたちが悪いんだと思う。悪意のない行為や発言は、明確な悪意を持つそれらよりも余程抵抗が難しく、断りづらい。行為者/発話者が無自覚なだけでなく、行為された/言われた側の者が「侵害された」自覚すらないままに、相手の論理に取り込まれてしまうようなとこがあるように思う。


今朝読んだ「音盤時代」で湯浅学さんが書いてたけど、「音楽も制度である」(←バイト先なので引用できないけどすごい文章だった)。音楽が全てから自由に存在するわけない。


そんな、「音楽」と称されるものの中から何かを好きになってしまうこと、それを別の言葉で言い表すなら、何らかの価値体系への否応なき参入であり、例えば美/醜や良/悪といった価値観を内面化してしまうことじゃないんだろうか。あらゆる価値体系の束縛から逃れながら、楽曲や演奏家、ジャンルなどに対して何らかの価値判断を下せる、ということはあり得ない。そして価値体系はその名の通り「価値」に基づく体系であるから、優劣、序列といった眼差しから逃れられないように思う。「A」を「良い」と思う視点を有しながら、「Aでないもの」をフラットな視点で見ることなんてできるのか?

つまり何が言いたいのかというと、自分には「好きな音楽」があり、たくさんの楽しみを享受してきたが、同時にそのことが排除してきた嗜好や価値規範が必ずある。また、基本的には自発的に受容するもの、という音楽の性質ゆえ、「好き」性ばかりがフォーカスされることで、「A」を好きでいる時、同時にコインの裏側にある「Aでないもの」への眼差しは隠蔽されている。 音楽が好きな自分は、同時に音楽が嫌いなんである。ゆうべは強烈にそれを思った。

0 件のコメント:

コメントを投稿