2012年3月15日木曜日

無関心を装うのかぇ

政治的態度の表明について。
何かをやってる人(対マスに表現活動を行う自律した個人、とかか?)は政治的態度を表明すべきなのか。大友さんが文科省の芸術選奨を受賞すべき/辞退すべきっていうネット上の言論を見て(大友さんも文科省もまるで知らんけど)、収拾つかんでもいいから考えてみようと思った。

自分の好きなミュージシャンの中には、政治的態度の表明がアイデンティティに還元され、ミュージシャン自身の評価に直結してる人がたくさん存在する。バンド自体が反○○を目指しているような場合もあれば、特定の曲にメッセージを託してる場合もあるし、ティーシャツにNO NUKESて書いてるだけの歌手(本業じゃ間に合わんかったのか?)とかも表明といえば表明やと思う。自分のこういう物言い(政治的態度の有無でミュージシャンを分別、カテゴライズしてしまう聴衆の態度)に象徴的に見て取れるけど、すでに「政治的であること」は表現活動を行う者すべてに包括的に要請されるものではなく、他の態度と並列するひとつのスタイルになってしまったんじゃないか思える。例えて換言するなら、いま、ある音楽家が原発への意思表示を一切怠り続けたとしても、その沈黙は批判対象とはならず、彼の音楽家としての矜持はこれまで通り保たれるんじゃないか。

自分が音楽に親しみ始めたのがちょうど2000年くらい。同時代の具体的な政治的局面を主題に据えた歌やミュージシャンの態度が、当時中学生の自分にまで届くことはなかった。確かブルーハーツのチェルノブイリを聴いたのが初めての“プロテストソング”体験やったと思う。短絡思考の中学生には、パンクだとかロックがまとう破滅的・退廃的・非持続的etc...な表象と、反戦平和の称揚や政治的・社会的意思の表明が矛盾と映ったのか、直感的に「変なの」って思った。同時に、メジャー会社から発売できず自主販売したとかいうセンセーショナルで魅力的な伝説に、ポップにおける「政治的メッセージ」の効果を内面化したりした。自分が音楽に親しみ始めた2000年、「政治的であること」は、聴衆レベルではひとつのオプションとしてとっくに外化されていたと思う。

とはいえ、中学生の時に抱いた「変なの」って気持ち、本当に安直な思考による誤りだったのか?ステレオタイプな(古き良き、ちゃんと政治的意思を表明していた頃の)ロック、ロッカーって、大抵つまはじき者、自己中心的でろくでなし、社会性のない奇人変人とかのイメージで売られてる。一体そんな奴がどうして自己矛盾なく社会的問題にコミット可能なのか?言い換えるなら、いかにしてロックという土壌は利己的な個人に公共性を獲得せしめたのか?……こんなんバイト終わるまでに絶対わからんやないか。

とにかく、アイドルが社会的諸問題に無関心でも何ら問題なく、ロックがそれに無関心であることは問題(だった)って、えらい違い。宣言どおり収拾つかず。いつか考えがまとまりますように。

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翌日の追記
あれからぼんやり考えてたけど、やっぱり「何でロックが自己矛盾なく社会的問題にコミット出来るのか?」「何でロックは利己的個人に公共性を獲得せしめたのか?」っていう問い自体に、政治(的な言動、振る舞い)をすっかり対象物として疎外してしまった自分の姿が透けて見える。

一つの仮説。物凄い不躾な言い方をするなら、身勝手なロック歌手は「おれのことわかるやついるけ」と、とにかく「おれ」本意で歌を歌う。ならば、「おれ」の内に政治的課題が根を張っていさえすれば、例えば女、車、金や未来のなさ、etc...みたいな典型的な主題と何ら矛盾なく並列するんじゃないか。85年に生まれて都市圏に育った自分は市民失格ってくらい寝ぼけてるのかもしれない。





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