まず、「場所」それ自体について。
もちろんその「場所」はまだ残ってるし、その場所を取り巻く人々が現出させてきた/させる<場>も残ってる。自分はその「場所」のいでたち、外からの見た目に魅了されてその場所に近寄っていって、次第に当事者のひとりとなった。それくらい、その「場所」そのものへの愛着はある。でも、きっと「場所」はただの入れ物に過ぎない。むしろ、これまでその場所をその「場所」たらしめた、人々や人々の営みのあり方といった「中身」=<場>が残るかってところが肝だと思う。<場>が途切れさえしなければ「場所」はつくれる。いまある「場所」だって、「○○のための場所」として用意され与えられたものではなかった。人々に語らいや思いつきや閃きをもたらした<場>の存在が、いまある「場所」の場所性・唯一性・代替不可能性を、長い長い時間の中でつくり上げてきたのだ。でもやっぱり、そんな<場>を醸成する入れ物としての「場所」に、物理的、空間的、時間的な断絶が与える影響がどれほどのものなのか、全然想像出来ない。
「決定」のあり方について。
今朝の知らせにはもっと嫌なとこがあった。その場所のあり方について、これまでずーっと、当事者と権力側との間に話し合いが持たれてきた。当事者、権力側双方が納得合意の上で従うべき大原則として、話し合いの原則があったから。でも、今朝の知らせには、権力側の話し合いの拒否、物理的暴力装置を用いた強制排除の意向が記されていた。もしその通りになってしまったら、これまで面倒臭さや非合理性に手を焼きながらもなんとかやってきた(直接)民主主義に最低最悪の汚点を作るんじゃないのか。
「自分の意思を無視して下された決定に、結局は従わされる」という決定のプロセス、この世界に生まれて以来、徹底的に叩き込まれ、常日頃「しょうがない」と納得し、それが不正だという感情さえ発露することなく、とっくに諦めてしまっている。「選挙で選ばれた為政者によるものだから仕方ない、民主主義ですもん」みたいな論理によって正当化され、ため息ついて終わり。
一握りの権力者に不都合な不平不満を黙らせるためのロジックとしてしか民主主義は機能してないんじゃない?彼らに拳銃や暴力を預けてしまったこととか、誰かに票を投じて多数決で問題ナシ、みたいな民主主義のあり方って、常に猛省が必要なくらい合理最優先で大雑把な仕組みやったんやと思う。
そんな世界で毎日暮らしながら、ふとあの「場所」の空気を吸うたび、ハッとしてピリッとする。本当に最後の砦だとか思えてくる。あの「場所」が失くなってしまったら、<場>が損なわれてしまったら、目先の暮らしに精一杯な自分は、そのピリッとする感じを忘れてしまうんじゃないか、と思う。自分の中にある民主主義の理想はそれくらい脆い。
最後に自分のはなし。
こういうでっかい不正に対峙したとき、自分はどうすればいいのか。ほんまに諦めっぱなし、不戦敗だらけの世界に慣らされ過ぎて、体なんか全く動かない。豚ってこういうことか。原発の時もそう。いつだってそう。なんか、その場しのぎのガス抜き方法を上手に見つけてしまって、怒りも悲しみも漂白されてどんどん役立たずになっていく。今回の件が当事者性も含めて、自分にとって大きな出来事になるのは間違いないと思う。権力による愚かな「決定」や「宣言」が、民意によってひっくり返るってところをこの目で見たいし、この手に掴んでみたい。
一握りの権力者に不都合な不平不満を黙らせるためのロジックとしてしか民主主義は機能してないんじゃない?彼らに拳銃や暴力を預けてしまったこととか、誰かに票を投じて多数決で問題ナシ、みたいな民主主義のあり方って、常に猛省が必要なくらい合理最優先で大雑把な仕組みやったんやと思う。
そんな世界で毎日暮らしながら、ふとあの「場所」の空気を吸うたび、ハッとしてピリッとする。本当に最後の砦だとか思えてくる。あの「場所」が失くなってしまったら、<場>が損なわれてしまったら、目先の暮らしに精一杯な自分は、そのピリッとする感じを忘れてしまうんじゃないか、と思う。自分の中にある民主主義の理想はそれくらい脆い。
最後に自分のはなし。
こういうでっかい不正に対峙したとき、自分はどうすればいいのか。ほんまに諦めっぱなし、不戦敗だらけの世界に慣らされ過ぎて、体なんか全く動かない。豚ってこういうことか。原発の時もそう。いつだってそう。なんか、その場しのぎのガス抜き方法を上手に見つけてしまって、怒りも悲しみも漂白されてどんどん役立たずになっていく。今回の件が当事者性も含めて、自分にとって大きな出来事になるのは間違いないと思う。権力による愚かな「決定」や「宣言」が、民意によってひっくり返るってところをこの目で見たいし、この手に掴んでみたい。
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