2012年3月7日水曜日

ドツボ節

三連勤二日目。しかし書かねばなるまい。文章に充てるって決めたから。

昨日は26時にバイト終えて帰宅、朝から根詰めてビラ書いてからのバイト終わりなんで、すぐ寝たほうがええんちゃうかと思いつつ、ビラの裏面を半分くらい残してたのが気がかりで結局朝6時までかかって仕上げる。昼12時に起床、仕上がりを確認して悦に入ったり修正したりする。あぁまずい楽器触らな、と思ったところで、このイベントを思いついた友達から電話が掛かってきたので、いよいよ刷ることに。最初の会議が3月1日で、出演者や開演時間なんかが概ね確定したのもこの日やから、手作り催事の手書きビラにしちゃかなりのスピードやったと思う。

とはいえ、これ、通常のライブのビラ(日時等の告知が出来てたらオッケイて感じのもの)と違って、会場の場所性そものもがイベントの趣旨に深く関わっているから、ビラそれ自体で「場所」を表現しなくてはならない。長い長い歴史の中で大勢の人たちが関わって、かつ中心や頂点のない「場所」を。書いてて改めて思ったけど、やっぱりあの場所は言葉に似てる。というかあの場所に気付かされただけで、普段カンタンに認識して一言で語り捨てているあらゆる事物たちも、本来は語るのにいちいち困難を伴うような存在だったはず。

じゃあこれまでどうやって暮らしてきたん?て感じやけど、きっと自分は言葉の持つ過剰さ/もの足りなさが、「事物そのもの」を変容させてしまうってことに無頓着であるよう、違和感を麻痺させることで暮らしてきたんやと思う。もちろんそれはこの世界を生きるのに必要なやり方やとも思っている。「事物そのもの」と「言い表されたもの」の間に、天地ぐらいの乖離があれば、その違和感に反応するんやろう。いやむしろ反応したからこそ天地の差があると言える、のかもしれない。その差が縮むにつれ鈍感になるのか、あるいはコミュニケーションの効率だとかを優先して捨象するのか、とにかく「そんなもんかなぁ」などと思いながら(あるいはそんなことすら感じずに)喋り、書き、している。もうこの文章がまさにそれ。書きながら「いやいや違う違う」ってなるし、かと思えば「いや、ええこと言うてる。これが言いたかったんや」とか思ったりする。果たして、言葉は思ったことのアウトプットとして十全に機能してるんやろうか。でも、それでも人々は言葉(的なもの)でしか通じない(以心伝心にファックオフを)。こんなことをなんとなく心に留めてるか留めてないかでだいぶ違うと思う。

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