2012年3月11日日曜日

一年に寄せる

2012年3月11日、こうしてバイトしているので、やっぱり何かを書く。ただの3月10日のあくる日じゃなくなった3月11日、何か言うべきなんやろうか。何かものを言う人がそれに触れない、あるいは沈黙することは、発言以上に何かを語ってしまうんやろか。

去年の今日(去年に今日はない)は、夕方までいつもの練習場所で大きな音でエレキギターを弾いていた。今のバンドとは全然違うバンドのサポートとして。自分以外のメンバーは大阪東京札幌在住やったけど、サポートの自分の都合に合わせて京都のいつもの練習場所で練習してくれた。たしか3月20日の演奏に向けての音出しやったはず。 3.11からの時間的な距離を思うとき、この日の練習場所に射してた冬の終わりっぽい西日とか、練習の終わり頃、さっき仙台の方で大きな地震があったっていう誰かの声を聞いたことを思い出して、1年どころじゃなく遠い昔のような気持ちになる。

あれからいろんなことが起きた。バンドを組んで歌を歌うようになったり新しいバイトを掛け持ちするようになったり恋人ができて一緒に暮らすようになったり猫がやって来たり近しい人が死んでしまったり卒業が決まったり、たりたり。こうして文字にすると不思議、まるでどっかの誰かの糞退屈な1年やないか。そしてそれはそのとーりなのだ。言い表すことの効能は、「このおれ」だとかの個別の事物そのものを一般化(言語化)して、そいつらをこの世界に開いてやれることにある。そして一般化が真っ先に捨て去るのが、一番重要だったはずの「このおれ」の唯一性なのだ。たぶんやけど。そんな危険性を隠蔽して一見安寧に行われ続けるあらゆるコミュニケーションにおいて、この前提が忘れられるとやばいと思う(たいがい忘れがちやし別に誰も教えてくれへんかったけど)。あくまで言葉は、言い表したい事物そのものを世界に接続するために、(まさしく)語弊も恐れず言葉にした、という風なものなんじゃないか。すべての言語は語弊なり。語弊こそ言語なり。しかし自分の喋ってる相手がそんな前提に立ってるんかどうかなんて全然わからん。そんな前提に立とうとする自分が頭おかしいんかもしれへん。なんかこわ。

原発について。いや、もうとっくにようわからんのです。放射性物質XXの半減期が何年だとか、静岡産のカツオは福島沖を回遊した帰りやとかどうとか。自分にとって何十年スパンの「恐怖」は、きちんとした「恐怖」の形を留めて胸に届かないってことだけははっきりと分かってしまった。なんせ一度も就活してない。きっとそういう馬鹿な部類の人なんだと思う。一回激安のカツオ買って一気食いした後、ちと不安になって検索した時たまたま引っ掛かったのが上に書いたカツオ情報。結局、結局ようわからんわ、というざっくりした気持ちから、その後もちょいちょい安カツオ食べちった。どう考えても放射能に怯えていない。きちんと放射能に怯えられていない。きっとある人に言わせれば、キミ麻痺してるわ~となるんやろう。とにかく自分はカツオを食べた。いや、カツオに限らず。あかん、アホのまま終わってしまうけど今日中に投稿したい気持ちなのでここらへんで。

想像もしなかった1年前の1年後の翌日、明日は磔磔で演奏。

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